わたくしの一身上の都合と、Typepadさんの一身上の都合の相乗効果により、掲載が遅れて申し訳ございません。
お待たせいたしました。今回の評者は、五島諭さんです。理知的な中にもグルーブ感のある短歌評は、巷にもよく知られるところ。
運営されているウェブサイト「短歌行」にリンクしています。そちらも合わせてご覧下さい。
吉岡太朗 三首評 五島諭
クリックに音あることの快楽にニュースサイトを見てまわりたり
カチッ、という小さな音がディスプレイに世界中のニュースを生み出す。インターネットでニュースを読むということは、狭い個室から、居ながらにして世界中の情報をキャッチできるということであり、それ自体としての快感もあるだろうが、この歌の焦点はむしろ、カチッ、という小さなクリック音に向けて絞られる。
私の祖母が仏壇の前で経を唱えていた様子が思い出される。祖母は経を唱えながら、たまにこぶしで膝を打った。その鈍い音が次の経文を導いているように見えた。読経はときに数時間にも及び、そんな場合、祖母の声は嗄れかけていたが、容易には近寄りがたい雰囲気を醸してもいた。こぶしで膝を叩く鈍い音の連鎖が、祖母をそういう状態にまで引き上げていたのではないかとも思う。
次々と新しいニュースサイトを開く「私」は、目の前に現れた文字を「読む」のではなく、「見てまわ」る。つまりこの主体がニュースサイトを開く目的は情報ではなく、おそらくは、経を唱えているときの祖母ほど強いトランスではないにせよ、やはり、世界と接触することによる淡いトランスなのではないか。そのことを表現しえたという点で、「見てまわりたり」は巧みだ。そして、その淡いトランスを生み出す快楽の原点として、カチッ、という小さなクリック音の連鎖がある。
ポンカンをひくい位置より渡されてあなたと同じこたつに入る
先にこたつに入っている「あなた」が差し出してくるポンカン。「あなた」は座っているから、「私」がポンカンを受けとろうとすると少し屈むような姿勢になる。その動作からこたつに入る動作への移行は自然だ。ポンカンを渡されたにも拘らず、結局そのポンカンを持ったままこたつに落ち着いてしまう。そんな場面が捉えられていて楽しい。
「私」は「あなた」を好きで、同じこたつに入りたいのだけれど、恥ずかしくてためらっていると、「あなた」の方が一枚上手で、ポンカンを渡すふりをしながら「私」をこたつに入るように促す、という感じで、内面を補って読むこともできる。歌自体は、「あなた」の内面も「私」の内面も明示しているわけではないのに、こちらがその書かれていない内面を想像してしまうのは、「あなた」と「私」の一連の動作から、たしかに内面を持っている二人の人物の存在が感じられるからだ。その内面の感触が、この一場面を得がたい、貴重なものにしているのだと思う。
ポンカンが香る。
堤防のS字の坂にさしかかりひとが自転車をおりるつかのま
河川の洪水を防ぐために築かれた堤防だろうか、周囲より小高くなっているので、堤防の上へ行くには坂をのぼらなければならない。坂はゆるやかにくねっている。ひとりの人が自転車に乗ってその坂にさしかかり、坂のくねりを途中までなぞっていったが、足がきつくなってきたのか、ふっ、と自転車から降りる、という場面。その一部始終をどこからか眺めていたのだろう。
しかし、ただ眺めていただけでは歌にならない。なぜこの場面が歌になったのかと考えると、ここでも内面というものが関係しているように思う。おそらく作者は、「ひと」が自転車を降りる動作に、その人の内面の変化を読みとったのだ。「あ、もうだめだ、降りよう」なのか、「ここらから押していくか」なのか、正確なところは分からなくても、自転車を降りる瞬間、「ひと」の内面には何らかの変化が起きたはずだ。そのわずかな変化に作者の内面が呼応した、小さな奇跡。
ただ、「堤防のS字の坂」という表現からは、「堤防」と「坂」の位置関係が見えてこない。「堤防の」の「の」のところに、情報が不足しているからだ。「の」の一字だけでは、作者の眺めていた情景と同じものを、読者が感じ取ることは難しい。また、「つかのま」というまとめ方は、この歌の場合、焦点を時間に当てているのか場面に当てているのかの判別を難しくしているように思えた。
プロフィール
五島諭(ごとう・さとし) 1981年6月28日生まれ。「pool」同人。ガルマン歌会に出ています。
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