短歌作品 佐藤りえ
ごめんねと玻璃の、ひかりのように言う菜の花畑いきができない
穴のあるからだで生きているくせになにももらさぬつもりで愚か
考えてわかることなどいかほどもないかんばせに満ちくる眠り
*
うつむいて微笑む 杉 森 多 佳 子 (評)
時には知らないふりをすることが生きていくための術として大切なのだと、人はいくつぐらいで習得するのだろうか。知らないふりをするのは、卑怯とかずるさのためではない。そうすることが、他者を傷つけないため、自分自身を守るためになることがあるのだと知るともなしに知るのである。佐藤りえの三首を、「知らないふりをする賢さ」をキーワードに読んでみようと思う。
一首目は、二、三首目に比べると情景が浮かびやすい。よく晴れて、春の陽射しが目を開けていられないほど眩しい菜の花畑。けれどその光の中へつぶやくように発せられる「ごめんね」という言葉がとても鋭く苦しげだ。作者の傍らにいる人に言ったのか、あるいはそこにはいない他者に向けての言葉のようにも思える。または自らを労わるかのような独り言かもしれない。そしてこの「ごめんね」と謝罪の言葉を発する時には、ふたつのパターンが成り立つように思える。ひとつは、作者自らの過失などに対して発せられた場合。もうひとつは、作者が他者からの頼みごとや告白などを受け入れれずに言うパターンがあるのではないかと思う。後者のパターンでは、先ほどのキーワードが有効になる。「ごめんね」と言うことに自覚がある、が、「ごめんね」と自覚的に言いながら、触れてはならないところに触れていないように言わなければ、相手を傷つける。「知らないふりをする賢さ」が無色透明に通底していると思うのだ。
次の二、三首目は、互いに実景度がうすくなり、抽象性が高くなっている。二首目、発話者は作者で、相手に言っているようでもあるし、作者が自分自身を客観的に見つめて言っているようでもある。また三首目も不思議な構図である。「かんばせ」が作者なのか他者なのか。作者であれば、眠りゆこうとする自分を俯瞰するように見ている視線によって詠われいる。また、他者の眠りを見おろしながら、作者がつぶやいている構図にも受け取れると思った。
二首をもう少し分析してみる。穴のあるからだで生きているとは、例えば呼吸がそういう仕組みだろう。息を吸いそして息を吐く。が、そうしてからだへ取り込んだものは、みな自分のものであると思ってなにももらさぬつもりらしいという生理的貪欲さが読み取れる。けれども生理的貪欲さから漏れ出す、生きている悲しみやさびしさというものがあるのよという解釈をしてみた。ここで愚かと、あえて強く言い切れるのは、生きる愚かさを知っているから。知っていてこそ、賢く「知らないふりをする」ことができるのでなかろうか。
続けて三首目。考えてわかることなどいかほどもないという諦観は、どちらかというとよいことの予測より、将来や未来に展望のない見通しのないときであるように思う。このフレーズを受けているのが、かんばせに満ちくる眠りである。眠りは死という大いなる眠りへと地続きともいえる。考えても知り尽くすことのできないものに立ち向かうには、「知らないふりをする」ことで安らぎを得て、いま眠りにつかんとする一瞬さえも生きていくのだ。明るい見通しばかりならよいが不安などが先立つ時は、きっぱりと予断を捨てて眠りにつく。予断を捨てられるのは、「知らないふりをする賢さ」に徹することができるからだろうと思う。
冒頭で、「知らないふりをする賢さ」をキーワードにすると書いた。しかし、佐藤りえの作品を読み解くうちに、いや、「知らないふりができる賢さ」だと思えてきた。「知らないふりをする賢さ」は、あざとい。「知らないふりができる賢さ」は聡明さだ。ふと思い出したのは、「ヴァーサス」11号掲載の佐藤りえの写真。二センチほどのモノクロ写真の中で、うつむきながら佐藤りえの横顔は、静かにかすかに微笑んでいるかのように思える。うつむきながら微笑むのは難しい。卑屈に見えたりするから。写真の佐藤りえは、歌とともに「知らないふりができる賢さ」で微笑んでいる。
*
WHO'S THAT SAYING SORRY AT MY NANOHANA-FIELD? (評)島なおみ
Q ごめんねと言っているのは誰ですか。
(1)この歌を、発話していると思われる人。作者が自らを仮託しているかもしれない存在。主人公。
(2)菜の花畑。
(3)菜の花畑に(1)と一緒にいると思われる(1)以外の誰か。
佐藤りえさんの3首連作。まず、この3首の構成についてですが、1首目があなたとわたしの物語。2首目が、生きているわたしたちみんなの物語。3首目はわたしひとりの物語。そのようなつくりになっているのではないかと思っています。
上の問いかけのアンサーのなかで、「わたし」というのは(1)にあたり、「あなた」は(3)にあたります。
・ごめんねと玻璃の、ひかりのように言う菜の花畑いきができない
この歌で「ごめんね」と言っているのが、(2)である可能性は、歌の設定がSFホラーファンタジーである場合のみですので削除するとします。
わたし=(1)、」とあなた=(3)。どちらがごめんねと言ったのか。
「ように」というのは副詞句で、人は自らの所作や行動をを視覚的かつ客観的に表現しうるのだろうか、という疑問がわく点ではなんとなく、あなたが言っているような気がしますし、もう一方では、短歌の体質として、一首のなかに複数の隠れた主格が存在することは考えにくいこととか、とくに明記されない場合その行為の主体は(1)であると考えるのが短歌の表現史の流れからすると順当であるとか、どっちなんだかよく分からないある意味身勝手な話法なのですが…、ただこれ、読む側としてはどちらであってもいいんですよね。(1)と(3)と、「ごめんね」がどっちの言葉だったとしても、メッセージのコアな部分は伝わってくるんです。
「ごめんね」と言うその言い方が、ガラスのように硬質な反面に、ひかりのように手でつかまえることができない、そういうことを、まばゆい菜の花畑で感じていて、いきのできない(1)がいるのです。
私は「いきができない」。そしてわたしのセリフだったかもしれない。あなたのセリフだったかもしれない、そんな「ごめんね」があった。このことが歌の主題なのだと思いました。
1首から2首への展開は面白いですね。この間にはある程度の時間が経過しているように思われました。
菜の花畑で「いきができない」と言っておきながら、ここでは、穴のあるからだで何かをもらしている、結局は息をしている。生きていると告白しています。また巧みな修辞が、あたかも箴言のように歌のメッセージの説得力を高めていると思います。
ひらたく言うとこの一首は、泣かないでいられると思ってたけど、やっぱり泣いちゃってる、馬鹿だよね…、というような話なのでしょうが
・穴のあるからだで生きているくせになにももらさぬつもりで愚か
と言われると、いや、生きるってそういうことでうよね、と読む側に深く頷かせてしまう。
物語としての構成力もそうですが、表現のベクトルも2首目で普遍性へ向かう構成ます。1首のようなある意味身勝手な話法の後に置かれているのは、いい意味でかなり計算され成功されているのではないかと思います。
3首目
・考えてわかることなどいかほどもないかんばせに満ちくる眠り
これは3句目「ない」が終止形で、意味はここでいったん小休止していると読みました。
杉森さんの評と重なりますが、考えてもわからないと思うのは、将来のこと、運命のこと、あるいは過去のIFと選択肢の先にあるもの。これだけは、考えて考え抜いても、わからない。
3句目までは、おそらく考えて考えて考え尽くしてわからないと言っているんだろうと思います。「いかほどもない」そう思い到ったときに、不思議にふっと安らぐことができ、眠りがからだを広がってくる、そんな感覚をが詠まれているのではないでしょうか。
「かんばせに満ちくる眠り」。眠りが手足の先から自分を支配してゆき、意識がぼんやりとしてゆく状態をうまく言い当てていると思うのです。
●佐藤りえ(さとう・りえ)
1973年宮城県生まれ。「短歌人」同人。歌集『フラジャイル』(風媒社)
HP http://www.ne.jp/asahi/sato/dolcevita/
歌集 http://www.fubaisha.com/search.cgi?mode=close_up&isbn=5133-2
●杉森多佳子(すぎもり・たかこ)
1962年生まれ。「中部短歌」を経て「未来短歌会」会員。歌集『忍冬 ハネーサックル』(風媒社)
HP http://blog.goo.ne.jp/tubamenotame-kazahananotame/
歌集 http://www.fubaisha.com/search.cgi?mode=close_up&isbn=2063-0
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