新企画の「a crossing」。
記念すべき第1回目の歌人は、兵庫ユカさん。評者は佐藤りえさんです。
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みんな死ねばいいとあなたは思いしばらくはわたしもそこに含まれている
もうすこし食べたかった と思うのは恥かしいこと箸袋折る
振り返って鉄橋を見るもう一度 匂いのしないものが噛みたい
短歌/兵庫ユカ
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【評】佐藤りえ
みんな死ねばいいとあなたは思いしばらくはわたしもそこに含まれている
「この世の終わり」の話をするとき、みんないっしょに死ねたらいいね、なんていうひとがいる。みんなで渡れば怖くない方式の話。一蓮托生なんていうけ
れど、なぜそれがちょっとした安堵につながるのか、正直よくわからない。みんな死ねばいいと「思う」そのひとは「みんな」に含まれているのだろうか? み
んな死ねばいい、とは、なんて孤絶で甘ったるいことばなのか。
しばらく、がどのぐらいの長さであるかはともかくとして、「あなた」も「わたし」も、きっと「そこ」に含まれていて、そして、「わたし」はうっすらと安堵するのだろう。
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もうすこし食べたかった と思うのは恥かしいこと箸袋折る
恥ずかしさは重要であると考える。恥ずかしいと思うとき、ひとはやたらめったら美しいシールドを生成して発光するのである。そのシールドを羽衣という(言わない)。
もうすこし、と思うことの恥ずかしさを知っているひとは賢い。ひとは賢くて愚かしい。
しかしここでは恥ずかしさに身を捩る身体はない。しずしずと箸袋を折る指先も頬も、恥ずかしさに赤らんでいない。恥ずかしい、と思うことが恥ずかしい、と思うことが恥ずかしい…というような、無限鏡のようなリフレインを内面にとどめ、いたく静かな居住まいでいるのだ。
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振り返って鉄橋を見るもう一度 匂いのしないものが噛みたい
この世にはふたとおりの人間がいる。橋を渡って振り返るタイプのひとと振り返らないタイプのひと。振り返って見る橋として鉄橋はたいへん似つかわしい。乗り物で過るとき、あっという間に遠ざかるのに、存在感ばかりがやけに心に残るから。
もう一度、鉄橋を見たいのか、もう一度、噛みたいのか。ふたつの欲求は同時に発生しているんじゃないか。鉄橋が噛む衝動を呼び覚ましたのか。匂いのしないもの、は反照的にエロチックだ。
ふと、鉄橋を見るひとと噛みたいひと、がワンフレームの両端に収まった画を思い浮かべた。こっち側とあっち側、両側の自分。
けどまあそれは妄想なんだけどね。自分はいつだって自分でしかない。鏡の中には誰もいない。
●兵庫ユカ(ひょうご・ゆか)
1976年生まれ。2003年、第2回歌葉新人賞次席。無所属。歌集『七月の心臓』(ブックパーク)
HP http://www.d3.dion.ne.jp/~y_hyogo/
歌集 http://www.bookpark.ne.jp/cm/utnh/detail.asp?select_id=52
●佐藤りえ(さとう・りえ)
1973年宮城県生まれ。「短歌人」同人。歌集『フラジャイル』(風媒社)
HP http://www.ne.jp/asahi/sato/dolcevita/
歌集 http://www.fubaisha.com/search.cgi?mode=close_up&isbn=5133-2
【評】島なおみ
みんな死ねばいいとあなたは思いしばらくはわたしもそこに含まれている
「みんな死ねばいいと」9音+7音+5音と破調ではじまる緊張感のある上句。比して定型で終息する下句は、音律に嘆息の気配がどこか生じます。
この人が悲しんでいるのは、「あなた」が「みんな死ねばいい」と思っていることではなくて、「みんな」のなかに「わたし」が含まれていることではないか。「あなた」の世界に「あなた VS みんな」の構図
が出来たとき、自分は当然「あなた」側に居ると思っていたのに、しばらくは「みんな」側に追いやられてしまったことへの、小さな驚き(微量の怒り?)と嘆きが感じ取られます。
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もうすこし食べたかった と思うのは恥かしいこと箸袋折る
もっと食べたい、もっと満たされたい、あるいはもっと愛されたい。言葉で表明してしまうのは、時にはわきまえの無いことになるのかもしれないが、思うぐらいはいいんでは? そう私は感じました。でもこの人にとってそれは禁忌行為なんでしょう。箸袋を折ることでその気持ちにけりをつけたのでしょう。兵庫さんがダイエットに成功する秘訣はこのあたりにあるのだろうかと。恥ずかしくないと思うわたしは、どんどん丸くなるのだと…。
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振り返って鉄橋を見るもう一度 匂いのしないものが噛みたい
「振り返り」ではなく「振り返って」。わりあい切羽詰まって、自分が渡ってきた鉄橋をもう一度見たのではないか。その鉄橋が私にも見えた気がしました。匂いのしないものを噛みたいという衝動がこみ上げて、鉄橋を含め自分が通過してきたさまざまなものを振り返って確かめてみたのでしょう。でも、この世の物はどれも匂いを持っています。鉄橋でさえ、風にまぎれてほんのりと鉄錆の匂いが届いたはず。
匂いのしないものが噛みたい、というこの人の欲求は、ここでも満たされぬまま、噛みたい欲はこの後も続いていく。
‡ 読者の方からの感想や歌評をお待ちしております。
(た)様
コメントありがとうございます。私は、(た)さんの評はどの歌に対しても丁寧な読み方がされていると思いました。
このあともa crossingの企画は続いて参りますが、いまここで、出されなかった答えがあったとしても、長い時間のなかで、それぞれの読者の中で答えとしてかたちづくられていくことを、企画者としては確信しております。
(た)さんがこれらの作品をひとりの読者としてどのように楽しまれたか、これからも、どんどん語ってください♪
今後も気長におつきあいくださいますよう、お願い申し上げます。
投稿情報: 島なおみ | 2008年2 月13日 (水) 09:11
島さん、評の追記ありがとうございます。
まだ気になる点が三つありましたので、第二回に移ってしまう前に。私の全体の感想に対して識者のご意見がもし伺えたらそんなに嬉しいことはないんですけれども…。
ひとつめは、二首目の「と思うのは恥ずかしいこと」。もう少し食べたいと思うのは恥ずかしい、という解釈に異論はありませんが、ではなぜ「こと」という体言止めで敢えて表現しているのか。私は、「わたし」に恥ずかしい思いがこみ上げてきたのではなく、「もうすこし食べたかった と思うのは恥ずかしいこと」だよ?という、「わたし」の外(例えば「あなた」)の価値観を表すために「こと」という表現を使ったのだと感じました。「わたし」の中では「もうすこし食べたい」と思い、「わたし」の外の人からは、「恥ずかしいこと」だよ、と明示的/暗示的に主張され、その折り合いをつけるために箸袋を折ったのではないかと思うのです。
ふたつめは、三首目の「鉄橋を見るもう一度」。「もう一度」の後に空白があって、「もう一度振り返って鉄橋を見る」という解釈は明らかですが、私には五七―五七七の「もう一度 匂いのないものが噛みたい」という読みも強く感じます。なぜなら、私が習慣的に使う「もう一度」という副詞句は、それにかかる文の前に置くのがいつものことだからです。ここをどう読むかによって、「もう一度振り返って鉄橋を見る」そして今度は「匂いのしないものが噛みたい」という解釈と、「もう一度 匂いのしないもの噛みたい」という解釈に分かれるのだと思います。
みっつめは、三首目の「鉄橋」と「匂い」について。鉄橋とは、「鉄の橋」という意味と、「鉄道橋梁」という意味の、二つの意味がありますね。私は、鉄道橋梁であるという設定で読みました。そして、駅から見える鉄道橋梁からは、私の体験では、鉄の匂いは駅では匂いませんでした。一方、鉄の橋という設定とすると、その橋は河に架かる長い橋という印象があります。勝鬨橋みたいな印象ですね。その場合、歩いて渡るか、車で渡るかすると思うんですけど、私は歩いて鉄橋を渡ったことは殆どありません。近くに大きな河がないせいもありますが、歩いて渡るには長すぎます。また、車で渡ったなら、振り返って見られるのは一瞬です。鉄道で渡って振り返れるのは、最後尾の車掌室前からでないと難しいですね。
この三つの点について、私の設定した状況以外でも、こういう状況なら、あり得るよ、みたいな具体的な風景があれば、どなたか、お教え下さい。
念の為申し上げますが、私はいろんな方の批評と私の感想との共有できる点を探すために、率直に感想を述べています。例えて言えば、短歌という中心点があって、批評や感想は歌とそれを読む人の間を繋ぐ放射状の蜘蛛の縦糸であって、それぞれの縦糸を繋ぐ横糸を模索しているようなものです。ご案内のように、蜘蛛の糸の粘着力は横糸にあります。横糸を張ることによって、歌の周辺に平面が広がり、歌の蜘蛛の巣を通る人たちを捕らえる粘着力が生まれるのではないかと、おぼろげながら感じています。くどくてすいませんが、私は詩歌の言葉に論理が含まれることに慎重な立場に身を置いています。なぜなら、論理には真偽があり、事実に反する偽の演算が含まれてしまった場合、私にとってはその詩歌は嘘であることになってしまうからです。まあ嘘でもいいんですけどね…。
投稿情報: (た) | 2008年1 月27日 (日) 00:45
折角の機会ですので、結句の周辺についてもう少し。
「匂いのしないものが」。まず、ものは「者」ではなく「物」という設定です。格助詞「が」で補語として腑に落ちる名詞はどちらか、ということで。物は、単語単体では、万物です。音楽なら、特定の周波数と倍音から成る楽音ではなく、噪音です。例えば太鼓の音のようなものです。鉄橋のガタンゴトンという音もそうですね。そして、鉄橋は匂いのしないものです。このあたりから、鉄橋と「匂いのしないもの」がリンクします。第二首までの旋律的な明確さから、突然、「もの」という打楽器音が表れ、噛みたい、で結句となります。
「もう一度」とは、以前に体験したことをこれからも再び、という設定です。なので、以前に聞いた鉄橋の音をこれからも再び聞き入りたい、という抒情が含まれていると感じます。しかし、結句周辺はその表現に留まらなかった。茫漠とした「もの」という空間が開かれててるわけです。そこで、島さんのいわれる「匂いの無いものを噛みたくなったのかな」という領域も含まれるわけですが、私はその領域が何であるか、例えば肯定文で表現するとどんな感じなのか、知りたいです。
投稿情報: (た) | 2008年1 月21日 (月) 22:39
(た)さん、丁寧な詠みのコメントありがとうございます。
3首が協奏曲になっているという新しい発見、面白かったです。
たしかに1首目はのっけから初句8音で、緊張した内容が伝えられ、その後、急、緩、急の構造になっていますね。
また、「わたし」に対する「あなた」という人物がひとりいて、その人が「気難し屋」という一定のパーソナリティを持った人だという気づきも、短歌の読みを深めていただいたように思います。
ところでコメントの最後の、匂いのしないものが残っていて、もう一度噛みたいと思う。
という解釈、実はわたしは少し違う読み方をしました。
匂いのありすぎるものばかり噛んできたから、匂いの無いものを噛みたくなったのかな、と。
と、このようにふたとおりの感じ方があったわけですが、兵庫さんのこれらの歌には、なぜそう思うのかという根拠やヒントがはっきりと提示されていないので、その部分は、読者が自分の心情に合わせて、補完していけばいいのかなあ、と思いました。
投稿情報: 島なおみ | 2008年1 月21日 (月) 09:05
…ということで、感想です。ここでは、どんな風景が見えたか、設定してみます。
まず、三首という形式について。協奏曲の三楽章形式に見たてる設定です。
第一首(第一楽章)は、突如、三首全体の主題を提示します。登場人物は「あなた」と「わたし」です。「あなた」は、みんな死ねばいいのに、と思うちょっと気むずかし屋さんです。「あなた」と意見が食い違ったのでしょうか、しばらくは「わたし」もそこに含まれてしまいます。でも、「あなた」は気分屋さんなので、しばらくすると含まれなくなるのでしょう。
第二首(第二楽章)は、ユモレスクのような緩いテンポでほっこりとします。二人は食事に行きましたが、「わたし」はもうすこし食べたかったようです。でもおかわりと言うわけにもいかない。それは「恥ずかしいこと」だから。箸袋を折って箸置きにして、箸がまだ使える状態にあることだけをささやかに主張してみたりします。
第三首(第三楽章)は、「わたし」が「あなた」を駅で見送る設定です。物語は終楽章を迎えます。河を隔てた向こう側に「あなた」は帰っていきます。見送った後、「わたし」は踵を返しますが、ふと後ろ髪引かれ振り返って、河に架かる鉄橋を見ます。そこには匂いのしないものが残っていて、もう一度噛みたいと思います。気むずかし屋さんなんですけどね。
投稿情報: (た) | 2008年1 月20日 (日) 22:17