a crossing 5回目のゲストは、喜多昭夫さんです。
春から初夏という季節のうつろいは、実は人の心のうつろいなのではないか。
やわらかく直喩で結ばれた人と草木の息づかいが、そんなことを思わせてくれました。
どうぞお楽しみください。
短歌3首 喜多昭夫
ゐざらひを洗ひてやればほうほうと声あげて子は桃のごとしも
ほつかりと息づくごとし側溝に吹き溜まりゐる花びらの量(かさ)
石段をすこし離れて登りゆくとまどふやうに葉桜さやぐ
喜多昭夫:1963年、金沢市生まれ。つばさ短歌会主宰。「井泉」所属。歌集「青夕焼」平成元年、「銀桃」平成12年、「夜店」平成15年。評論集「逢いにゆく旅 建と修司」平成18年。現代短歌評論賞、齋藤史賞、泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞。現代歌人協会会員。
今まで、直喩は表現対象から離れ浮遊しがちな喩法とばかり思っていた。この3首によって、洗練された直喩は効果を持つことを見せつけられ嬉しい。
第一首。全ての句が集結する結句最後の「も」が「子」への思いの余韻を表していると感じられる。声上げる子はではなく、「声上げて子は」。基本か。生気を感じる。「ゐざらひ」、その言葉から改めてイメージを広げられたが、辞書で調べてそれなりの意味にとる程度。実感を持てないのは哀しい。ちょうど、左千夫の「玉拾い居り」の「玉」を砂浜だから貝のことであろうと断じた解説文を読み、現地を丹念に歩けば玉もあるし、色々探すのが楽しくてつい海岸を何百メートルも歩いてしまう思いなどを切り捨てられたようで残念に感じたことがあったが、他の地方にも地元民にしか知り得ない事柄があるのだろうと予想される。
第二首。五七調で重厚感を醸しながらもさらっと柔らかい。第一首同様、結句の「量(かさ)」に向かって全ての句が集まってくる。「ほつかりと」見えるのは散って直後の綺麗な花びらだったからか。側溝にはできれば溜まりたくない。
第三首。金沢には石段が多いそうですね。思い出すのは尾山神社だが、金沢城公園のほうが設定として美しいか。「すこし離れて登りゆく」相手との心の動きが「とまどふやうに」「さやぐ」、しかも「葉桜」、花の盛りを既に過ぎた。新しい展開を予感させる。
投稿情報: (た) | 2008年5 月20日 (火) 02:48