+a crossing 内山晶太さん作品の歌評は、大辻隆弘さんです。 短歌評 * 大辻隆弘 わらじむし湯船の底にゆらめけりさながら冬のはじまりにして 内山晶太
「わらじむし」は水辺に生息する小さな甲殻類。ダンゴムシと似ているが、背をまるめることはない。 この歌の上句の情景は、 湯を張った風呂の湯船の底にワラジムシが生息している姿を、 作者が湯に入りながら見ているところなのだろう。 虫が嫌いな人間なら、悲鳴をあげる場面なのだろうが、
作者はそれをせずに、 ともに生きるものとしてなにか共感めいたものさえ感じながら、 そのダンゴムシを眺めているようだ。 そのゆったりとした気持ちは「湯船」「ゆらめけり」の「ゆ」 の音の頭韻によって醸し出されている。 下句「さながら冬のはじまりにして」
という部分がやや多義的だ。「さながら」とあるのだから、 この歌が歌われた季節は冬以外なのだろう。夏の最中にいながら、 冬ごもりを始めるときのような安寧。そういったものを、 作者は湯につかりながら感じとっているのかもしれない。 You Tubeというものあればあるときは若かりし轟二郎みており
轟二郎というタレントの名前を久方ぶりに見た。
今はほとんどテレビで見ない。全盛期でも「一世を風靡した」 といったタレントではなく、あまり売れない二流のコメディアン・ 役者だったように思う。 動画を自由に見ることができるインターネット上の「You Tube」で、作者は、
何の気なしに轟二郎の若かった日の映像を見たのだろう。彼は、 その映像を見るともなく見てしまった、 ああこんなタレントがいて、自分は昔ひととき、 このタレントが出ていたテレビ番組を見ていたな、とふり返る。 そういう茫然とした脱力感をうまくとらえていると思う。 このような脱力感は、実は、この一首の文体が醸し出すものだ。
「というものあればあるときは」 といった意味的にはほとんど内容のないゆったりとした言葉づかい がうまい。「あ」の音の調べもよく聞いている。 さりげなく置かれた「ており」の措辞もうまいだろう。 まわりの意味性が薄められているために「You Tube」という外来の新しい言葉と「轟二郎」
というゴツゴツした固有名詞が、読者に強く印象づけられる。 そのバランス感はなかなかのものだと思う。 竜田揚げ食みつつうすき嘔吐感 、くりかえし花吹雪のなかにいるよう
竜田揚げというのは、まあ和風からあげである。
その色が赤いところから、紅葉の名所「竜田山」 にちなんで名づけられた名だ。したがって「竜田揚げ」 という名詞の背後には、 日本の花鳥風月の美意識にうらづけられた紅葉のイメージが張り付 いている。 おそらく作者はそれを意識しているのだろう。
竜田揚げの油によって、軽い嘔吐感が襲う。 作者の内臓は少し疲れているのかもしれない。が、 その嘔吐感を作者は、絢爛豪華な「花吹雪」のなかにいるようだ、 と喩える。そこには、 不快な嘔吐をあえて豪華な言葉によって表現しようとする、 作者の遊びごころがあるのだろう。
「竜田揚げ」の背後にある紅葉に彩られた錦秋、「花吹雪」
の背後にある絢爛豪華な春。 日本の春秋の代表的な美である紅葉と花のイメージを「見せけち」 のようにチラリと感じさせる美学、 ちょうどそれは荒涼たる浜辺の光景を「 見渡せば花も紅葉もなかりけり」 と歌った藤原定家の美学を想起させる。 作者はそれをきわめて卑近な事象のなかに導入し、 詩的要素のない日常の荒涼を表現しようとしたのかもしれない。
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竜田揚げに竜田山の紅葉という日本の伝統的な美意識を見出し、謎めく三首目を読み解いていくくだりはドキドキしました。某ファストフードの商品「チキンタツタ」を見る目が変わったかもしれません。
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大辻隆弘(おおつじ・たかひろ) 1960年三重県松坂市生まれ 現代歌人協会会員 日本文芸家協会会員 著書に、歌集『水廊』 『デプス』(第8回寺山修司短歌賞) 『抱擁韻』(第24回現代歌人集会賞) 『夏空彦』 評伝『岡井隆と初期未来ー若き歌人たちの肖像』など。
内山晶太(うちやま・しょうた) 1977年千葉県八千代市生まれ 1998年、連作「風の余韻」により第13回短歌現代新人賞受賞 短歌人同人
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