◇杉森多佳子さんの短歌作品に菊池裕さんが評を寄せてくださいました。
故春日井建さんの作品や、杉森多佳子さん第一歌集『忍冬』にも言及されています。ぜひお読みください。
*
ホッチキスを針がないまま押しあてた瑕のごときが春には疼く
春日井建の『白雨』に<患む友を思ひをりしかば白暁にファントムペインわれに兆しつ>と云う歌がある。ファントムペインとは、「実在しない痛みを感じること」の意。この幻痛は、現実の痛みよりも強く心に突き刺す。杉森さんがこの師の歌を念頭に置いて詠んだのは想像に難くない。彼女の歌集『忍冬』には、<コクトーの阿片に溺れる人生を疼痛として受けとめる夜>といった追悼歌もある(私も忌日の五月二十二日が近づくと疼痛する)。
それはさておき、この掲出歌だが一首全体が寓喩となっている。表題が「指」とあるからおそらく指にホッチキスを刺した傷みを心の傷みとして寓意化しているのだろう。季節は春、過去にとても嫌な出来事があった。不可視の傷は血を流さないがその季節がやってくるたびに幻痛をともない突然、疼くのだ。初句の「ホッチキスを」から結句の「春には疼く」までの流れは、やや性急だが不如意の心情を捉えている。ところでなぜホッチキスという語を斡旋したのか(ちなみにホッチキスは、機関銃等の兵器発明家の名前であることもなにやら興味深い)。硬くて無機質なモノから詠い出すのは何だか意外な気がするのだ。杉森さんの本来の情緒質とはやや異なる。例えば<地に降れば影をもつゆえてのひらの温みに触れて雪片は消ゆ>のような滞空時間の長い詠法は、影をひそめモノから事をいきなり想起させ、さらには、言葉自体を物質化させることに重きをおいていると云えなくもない。リリシズムを捨て言葉派への転向か?
「春には疼く」の結句で世界が断絶する。
*
もう雨は止んでいるのにわたしだけ(握っていたい)透く傘を差す
最近、歌会等でバーレン=丸括弧を見るにつけ「もういいんじゃないか」と云う意見が必ず出る。私もそう思う。皆、バーレンに厭きているのだ。そしてまた、この掲出歌を読み解くのにやっかいなのは、やはりパーレンだ。ほんとうに適切なのか否か?
「もう雨は止んでいるのにわたしだけ透く傘を差す」に挿入された(握っていたい)は、もう一人私の内なる声なのか?どうか。私見を先に云えば、この歌に限っては、適切だったと思う。
三句の「わたしだけ」で切り離される感じが功を奏している。また、(握っていたい)ものは、傘の柄ではなさそうだ。いやそうかもしれないが傘の柄ではあまりにつまらない。そしてバーレンなしで読んだ場合、時制が曖昧になる。雨が止んだら傘を閉じる道理だが作中主体は、あらためて傘を差すのである。いや、さっきまで雨が降っていたのだが、屋外に出たら止んでいたけれど私は、傘を差すという解釈も成り立たなくはない。で、ここでやっと気づくのだがこれば嘱目詠ではない。現実原則にのっとって読み込もうとする歌ではないのだ。雨は何かの比喩で、傘も何かの比喩だ。「透く傘」もビニ傘という訳でもなさそうだ。おそらくは渾沌とした内部の心象的世界である。止まない雨はない筈なのに私にだけ雨が降り注ぐ。雨は哀しみの喩だが、その哀しさを凌ぐには透明な、眼には見えない傘が要る。そしてなによりも(握っていたい)のはその哀しみである。すると(握っていたい)の括弧の内部からナルシズムがやんわり漂う。
*
いらだちをなだめいる夜 円錐にととのえて盛る山葵のみどり
うまく出来上がっている一首である。心情もわかる。情景もわかる。工夫がある。おまけにサビまで効いている。「山葵」の措辞は見事であり何物にも換え難い。ああ、実感としてよくわかるなという感じがする。にもかかわらず不満を述べます。
「いらだちをなだめいる夜」は、説明的で理屈っぽいのではないか。そしてなによりも下の句との対比がわかりやす過ぎる。「いらだち」とは、なだめようとしてもままならないのが「いらだち」たる所以である。一首の構文に破綻があって然るべきではないか。整った顔は美しいのだがもうすこし乱れてもいい。まあ、これはあくまで私の無いものねだり。なぜこんなことを云うかと云えば、恐らくこの作中主体は(あるいは作者は)、もっと情念が強くて深い筈のだ。もう一人の自分を着飾って演じているふうなのだ。定型という意匠は、素顔や本音を隠しやすい(そこが美徳でもあるが)。結句の処理がいかにも手錬で抑制し過ぎているきらいがする。
飛躍、破綻、滅裂を求む。現代短歌のひとつの傾向として、上の句と下の句をどこまで乖離させるかという命題がある。着き過ぎず、離れ過ぎす。でも飛距離はのばしたい、もっと跳びたい、遠くへ行きたい。散文を韻文化する脚力がほしい。と、ここまで書いて、これは私の自戒であることに気付いた。
菊池裕略歴 1960生まれ。1987年中部短歌会入会。編集委員。2004年歌集『アンダーグラウンド』(ながらみ書房)上梓。2005年『アンダーグラウンド』により第13回ながらみ書房出版賞受賞。
引っかかっていた言葉を丁寧に説明していただいて、うれしく思います。
投稿情報: (た) | 2008年3 月20日 (木) 08:17