先日、「屋上の人屋上の鳥」の批評会を開催されたばかりの花山周子さんから
喜多昭夫さん作品の短歌評をいただきました。
丁寧な読解のなかにも骨太な感覚が見られ、新鮮に感じました。
どうぞお読みください。
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短歌評:花山周子
ゐざらひを洗ひてやればほうほうと声あげて子は桃のごとしも 喜多昭夫
最初の二首にはハ行音などのやわらかい語感によって、春のあたたかな厚みが描き出されているように思った。この一首目も、場面は「ゐざらひ」つまりお尻を洗ってやるときに子供が声をあげているというだけのことであるが、それだけではない、なんとも不思議な感覚に陥れられる。「ほうほう」という一見、爺臭くもあるような太い擬音語。これは、子供の声を忠実に表現しようというよりは、「桃のごとしも」という比喩の持つやわらかな感触に沿うように選ばれているのではないか。また、お尻が桃のようだという比喩であれば、常套的とも言えるが、この歌では、先に「ゐざらひ」が出てくるものの、直接的にお尻と桃が結びついてはいない。「ほうほうと」声をあげる子供全体が「桃のごとしも」となるので、この「桃のごとしも」という比喩が歌全体を包み込むような印象があるのである。そのために、読んでいると、湯船から立ち昇る湯気の中で桃色の皮膚をした子供の姿が浮かぶと同時に、その周辺の空気までもが桃色をしているような、春の生暖かな温感が伝わってくる。
ほつかりと息づくごとし側溝に吹き溜まりゐる花びらの量(かさ) 喜多昭夫
この歌でも、「ほつかりと」という擬態語に、実際の風景を描写しただけでは捉えきれない、春の息吹のようなものを感じさせられる。「ほつかりと息づくごとし」とは、とても変わった表現である。「ほっかり」という言葉は辞書を引くと、「①うっかり。だしぬけに②すっかり。まったく③大きく口を開くさま。ぱっくり④暖かみのあるさま⑤ほんのり明るいさま」となっていて、この歌では④や⑤の意に近い使われ方をされているように思うが、しかし、基本的にはこれらの意味にしぼられない感覚的なオノマトペとして使用されているように思う。
私には花びら(桜の花びらと思って読んだのですが。)がたくさん積もっている状態というのは、花びら一枚一枚の水分で、なんとなくしっとりと湿っていて重みのある冷えたかたまりのような印象がある。しかも、側溝に溜まっているというのだから、なおさらにしっとりとした状態を思い浮かべるのだが、「ほつかりと」が捉えているものは、側溝に当たる春の陽射しがもつ暖かみとか、「息づく」という空気に関わる言葉からも伝わるように、側溝に溜まった花びらの周辺の雰囲気をも含んでいるように思う。溜まった花びらの描写に終始しながら、その花びらのやわらかな質感を包みこむような周囲の空気までもが「ほつかりと」という言葉には反映されていると思うのである。
石段をすこし離れて登りゆくとまどふやうに葉桜さやぐ 喜多昭夫
さりげない歌だが、淡く相聞の気配が漂う。最初読んだときには「石段を少し離れて登りゆく」の主語がわからなくてとまどった。私が、石段を少し離れたところを登っているのかとも思ったが、違うだろう。私と、もうひとりの人が石段を少し距離をとりながら登ってゆく。
このように「石段を少し離れて登りゆく」の主語がぼかされていることで、つまり言葉上は人物の存在を省かれることで、二人の関係のほのかな緊張感がより淡い体感として伝わってくるように思う。そして下の句の「葉桜」の映像がより鮮明に浮かぶ。
歌の中の「われ」は石段を登りながら、いっしょに登るある人との距離を意識しつつ、その視線はゆれる葉桜を仰いでいる。そしてその葉桜に己の「とまどふやう」という心情を見出しているのである。「とまどふやう」がやや露骨な気がするが、どうであろうか。
「葉桜さやぐ」に初々しい情緒がある。主語(人物)のないことと、「石段」や「葉桜」という言葉から描き出される、しずかな初夏の情景の中で、その葉桜が「さやぐ」だけで、「とまどふやうに」と言わなくてもいいものがじゅうぶん感じられる気がするのである。
それから、上の句と下の句がそれぞれ別のセンテンスとして成立している(「~登りゆく」「~さやぐ」というふうに)ために、散文的な印象を受ける。そのために上の句から下の句へ移るときに「われ」の視線の動き、あるいは心の動きなど、切り替わる様子が叙事的に且つシンプルにとらえられていると思うので、「とまどふやう」だけが、やや位相を異にしているような印象を受けるのである。
花山周子(はなやま・しゅうこ)
1980年5月18日生まれ。1999年「塔」に入会。2007年8月第一歌集『屋上の人屋上の鳥』(ながらみ書房)を上梓。
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