a crossing 記念すべき第10回後半は、荻原裕幸さんによる短歌評です。
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光森裕樹さん3首評 荻原裕幸
乾びたるベンチに思ふものごころつくまで誰が吾なりしかと
ふだんの生活のなかで、あえてそんなことは考えないとしても、ほとんどの 人が、私は他の誰でもない私である、と感じているのではないかと思う。それ にもかかわらず、私とは誰か? という問いがある。他人とともにある社会の なかで、他の誰でもない私がどんな存在であるのか、確認したくなる誘惑から 逃れるのは難しい。現在の短歌の多くは、この問い、私とは誰か? に対し て、部分的に解答をしていると言ってもいいだろう。光森裕樹のこの一首も、 そうした文脈から大きく逸れてゆくものではない。からびたベンチに坐って、 私について想いをめぐらす私、というのも、いかにも短歌らしい私の構図の一 つである。ただ、ここで、私とは誰か? という問いは、軽く逆転している。 私が現在の私になる前、一体誰が私であったのか? 白紙状態で生じた生命と しての私が、ものごころつくまでにどのような経緯をたどったのかと問うなら ばまだしも、誰であったのか? と大真面目な表情で問いかけている。一読し て笑ってしまった。理屈っぽく考えすぎて奇妙な袋小路に入りこんだ思索のか たちが、実に巧く描かれていると感じた。一首を構成する文語も、この思索の 迷路をユーモアの方向に転じる効果をあげているようだ。
最初の記憶
ものごころ躰に注がれゆく音を土鳩のこゑとして聞いてゐた
一首目を読んで笑った流れでこの二首目を読むと、
笑いはさらに加速した。 なぜここで笑いが生じるのかを説明するのは難しいのだが、
私をめぐる思索を ここまで理屈っぽく俯瞰して描くと、
どこか壮大な冗談めいて見えて来る、と 言えば、少しは説明になっているだろうか。
もちろんこれらの作品が、読者を 笑わせるために、
冗談として書かれていると言っているのではない。この一連 で描かれた私の、最初の記憶は、土鳩の声だという。
ものごころがつく前の私 が現在の私ではない誰かだという一首目の文脈をうけて読めば、
土鳩の声は、 どこか外からやって来た、
現在の私の最初の構成要素だということである。土 鳩の声が外からからだに注がれるとともに現在の私は形成されはじ
め、ものご ころのつきはじめた現在の私が土鳩の声を聞きはじめるのである。
わかったよ うなわからないような理屈だが、
私という解けない謎に理屈で対峙しようとす ればおのずとこうした奇妙な展開になることをわかって作者は書い
ているのだ ろう。詩情のなかに私の謎を解けこませるようなことばに比べて、
この理屈 は、圧倒的に真摯なものであり、そしてユーモラスでもある。
まやかしの答に 向かわず、
私という解けない謎に対峙する人の姿が俯瞰されることによって、 謎に向かわざるを得ない次元からの解放へとつながってゆくようで
もある。笑 いが生じることも、そのあたりに要因があるのかも知れない。
いつの日のいづれの群れにも常にゐし一羽の鳩よ あなた、でしたか
この三首目は、他の二首との関連のなかにべったり置かれている。
三首によ る短い連作のまとめのようなものとして読めばいいだろうか。
結句の「あな た、でしたか」は、一首目の「誰が吾なりしか」
の答ということのようでもあ り、二首目の「土鳩のこゑ」の主ということのようでもある。
たぶんどちらで もあるのだろう。私があらかじめ私として生じたのではなく、
外からやって来 た何かによって構成されているという発想は、
一首目と二首目にあきらかなよ うに、つきつめてゆくと奇妙な事態にはなるが、
何ら特殊なものではない。核 になっているのは「いつの日のいづれの群れにも常にゐし」
である。私のルー ツを探った結果、最初の記憶である土鳩にゆきあたった。それは、
現在、ベン チの周囲にいる一羽でもある。時空を超えて遍在するこの鳩は、
何やら神のよ うな存在にも見える。しかし、その土鳩は、決して、特殊な、
特定の一羽では ないということだろう。
いつどこにでもいそうな一羽の声が注がれるところか らはじまった私は、いつの間にか、
いまここにしかいない私になったのだ。表 面上、からびたベンチで鳩を見ながら、思索して、回想して、
どこか妄想にさ え近づいている感のあるこの連作は、
私をめぐるこうした文脈の上にのっては じめて輪郭がはっきり見えるように感じられた。
荻原裕幸(歌人)
1962年愛知県生まれ。第三〇回短歌研究新人賞受賞。著書に、歌集『青年霊歌』、『甘藍派宣言』、『あるまじろん』、『世紀末くん!』、全歌集『デジタル・ビスケット』。オンデマンド出版「歌葉」プロデュース。
勤労感謝の日にそれらしいことはできませんでしたが、光森さんの三首に、
耳をすましてみます。
まず一ヶ月前に一読した段階では一首目「ものごころつくまで誰が吾なりしか」と
三首目「あなた、でしたか」の、順不同のインパクトしか受け取れませんでした。
ただ、それだけでも「嗅覚レベル」での味わいはなされたという自覚のもと、
三首目が初めにあるようなイメージで、考えを進めていった記憶があります。
さらに荻原さんの解説も踏まえ今日あらためて3首目を考えた場合、英語「dove」(ドバト)でいう
「a dove」:片方(この場合は相手側のハト)にしか対象(この場合は「吾」)のイメージがない状態
または、吾から見て、数ある中の1つでしかない状態
が、
「the dove」:自他に何らかの(共通でなくともよい)イメージができる状態、
双方にとって対象が自覚された状態
に変わる瞬間をとらえているように感じました。
さらにdoveについてまわるノアの方舟の連想(ジーニアス英和辞典からウィキを参照しました)の中で、妄想気味に2首目にあたってみると
ノアの創世記から数えて、幾羽目かの鳩に耳を傾けた主体が、
「初めて見たものを親と思い込む」刷り込みに似た、
無条件の郷愁を感じている印象が浮かびます。
さらに一首目の「乾びたるベンチに思ふ」吾は、「方舟の残骸」の延長線上に
心地よく迷い込んでいるようです。
この物語は3パートで終わるようですが、この「吾」は3歩あるいてはまた忘れ、
角度を少しずつ変えて、同じ迷路にいるのかもしれません。
投稿情報: 山本剛 | 2008年11 月24日 (月) 01:23