みなさま、こんにちは。
+a crossing 第11回の短歌作品は、荻原裕幸さんです。
透明で静謐な秋の空気のなかに、現代の風景を映し出すすてきな作品です。
どうぞお読みください。
秋容 荻原裕幸
ごみの日はごみの日なりのあかるさに朝の私を鳴らして歩く
左右なきやすらぎを踏む非常口のサインに暮らす緑のかげは
みづが撓むやがて傾きながら冷える秋の街ゆくからだの闇に
コメント欄にぜひ感想をお寄せください。
本作品の歌評は、なみの亜子さんを予定しています。
更新は11月中旬以降になる予定です。楽しみにお待ちください。
荻原裕幸(歌人)
1962年愛知県生まれ。第三〇回短歌研究新人賞受賞。著書に、歌集『青年霊歌』、『甘藍派宣言』、『あるまじろん』、『世紀末くん!』、全歌集『デジタル・ビスケット』。オンデマンド出版「歌葉」プロデュース。
一首目の感想の追記です。
「ごみの日は」という初句によって、解釈可能性の扉が開かれて、続く句を読めそうな気になる。同時に[i]音の反覆がおそらく第2
フォルマントによってバックビートを利かせている。二句目「なりの」には[a]音と[i]音が混在し、続く句の[a]音のダウンビートへの弱起となっている。三句目は[i]音は[a]音に引き継がれ、「あかるさに」の「さ」にバックビートの余韻を残しつつ、句の初め「あ」によってダウンビートへと完全に引き継がれ、[asa]の[wata]しを[nara]して[a]るく、と[a]の文節の頭韻によって安定したリズムが整えられ、一首通してバックビートからダウンビートへと終止感を醸している。言葉の意味のつらなりは、「ごみの日は」の初句に裏切られることなく平易な手の届くと思われる語彙で構成され、その上でさらに感情のゆらめきを無理なく想起させる。
また、私には不案内な短歌史の軸も通しているようで、そちら側の理解や評価も得られている。
「短歌史に深く依存しすぎるのでもない、無根拠にひらきなおるのでもない、そうした中間的な領域を〈場〉とすること。これは、短歌が、現在の表現として生きるために、最低限必要な条件だ。そんな〈場〉を、楽しみながら模索したい。」(荻原裕幸 「カラオケ的なカタルシスを超えて」http://www.bookpark.ne.jp/utanoha/gendai/index0304.asp より)
言葉どおりに実践されていることに信頼感を感じる。
「誰か、見えない題のような存在」(http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2008/11/2008116-e32f.html ) は私の視座から見ると完全にクリアされていて、私がその点をクリアしていないことを感じつつ、現在の私の限界が明瞭に見えたことに感謝の意を表しながら、この一首に感じた構造から連想した曲にリンクする。
http://www.youtube.com/watch?v=7vQ-cZK0p18
わかりにくくて申し訳ありません、という気持ちである。
投稿情報: (た) | 2009年3 月31日 (火) 13:14
落葉の晩秋の冷たさ、「モノトーンに近い」と山本さんがおっしゃってますが同様に感じました。
「あかるさ」「やすらぎ」「かげ」「からだ」、それぞれ幾つか漢字が控えつつ、ひらがな表記することで三首を通る糸のように浮き上がってくる。
第一首。和語。リズミカルな韻律。[a]の多用が「あかるさ」を引き立たせている。しかし「なりの」と表されることによりアンニュイな感じを受ける。あきのあかるさ、朝の日常に焦点を合わせた俯瞰と感じられる。
第二首。漢語、和語、重箱読み、外来語。昼間の日常に交わされる言葉の雑踏。その中で「緑のかげ」だけは「やすらぎを踏む」。すると、やすらぎのそとにある歌は定型から外れてくる。ところで非常口というキーワード、どこかで見たと思ったら、島さんの歌だったですね。
第三首。再び、和語。破調。動詞が四個ある。「みづ」が口語文体の破綻をちらつかせる。ただごとならぬ雰囲気。「みづが撓む」を中心として三首が流れ込んでくる気がする。終止形でリズムが停止する。「からだ」は、明日の朝になれば第一首のような日常の時間を繰り返す。でも「みづ」は「からだ」の外にあると共に内にもある。結露した窓から「秋の街ゆく」夜の人影にフォーカスイン、と設定してみました。
投稿情報: (た) | 2008年11 月11日 (火) 21:46
紅葉といった、秋まっただなかというよりも、
モノトーンに近い色彩感覚が出ている連作だと思いました。
第一首「ごみの日はごみの日なりのあかるさ」にみられる、
夜(型の人間)と朝(型の人間)が接する点に自らをのせる様子
第二首にみられる、やすらぎに先回りしたかのような「緑のかげ」
第三首にみられる、一年が暮れゆくような秋の温度と体内の対比
には、身体感覚の躍動を抑えた一見きゅうくつな印象がありますが、
「私を鳴ら」す、「非常口のサインに暮らす」、「みづが撓む」には、一歩引いたところからの
(自らをも見透かしたような)「ゆらりとした目線」が感じられ、にぎやかな印象をもちました。
投稿情報: 山本剛 | 2008年11 月 9日 (日) 22:33