+a crossing 第11回にお招きした評者は、なみの亜子さんです。
荻原裕幸さんの二首目、三首目をどう読まれるかは、私にとっても興味津々でしたが、丁寧かつ説得力のある文章をしたためてくださいました。どうぞお読みください。
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荻原裕幸〈秋容〉三首評 なみの亜子
ごみの日はごみの日なりのあかるさに朝の私を鳴らして歩く
恐らくは、「朝8時までにお出しください」などと指定されているごみの日の朝のごみ出し。極めて日常的なシーンに、明暗と音楽性をもちこむことで生彩を与えている。上句は言葉の調子、口から出まかせ的な勢いをあえて抑制せずに作っている感じがあって、その軽快さや流れ感自体が「あかるさ」(平仮名なのがいい)の明度を上げていくようなところが面白い。その「あかるさ」を「に」でつないだところも技あり。下句はやや雰囲気的でラフな表現なのだが、「鳴らして歩く」と結ばれてにわかにリズムが出てくる。理屈でなく身体経由で感じがつかめるのだ。だが厳密には「ごみの日」と呼称の定められた日なんかないし、改めて見ればヘンな日。これが日常においては公用語のごとく通じてしまう、ということへの着目と、その通じ方をそのままを導入したのが一番の手柄か。規制された日常を生きることの倦怠と、それはそれなりに気分を遊ばせることもできる我らに。
左右なきやすらぎを踏む非常口のサインに暮らす緑のかげは
一首目に比べるとぐんと難解だ。この非常口のサインは恐らく文字サインではなく、ピクトグラムであろう。開いたドアに人とわかる形が駆け込んでいく、あのお馴染みの絵文字のその見え方を、表現したのか。つまり、駆け込む人の姿をした「緑のかげ」は、「左右」どちら仕様で駆け足を「踏ん」でいても、それが平面状に描かれたものであること、そのことの絶対的な安定感のなかに暮らしてるんだよね、ということを詠っていると解釈してみる。全体には、澄んだ緑色を基調とするイメージ展開が清々しい。だが率直に言って、「やすらぎ」に「左右なき」だの「を踏む」だのが斡旋されていることに動揺する。「サイン」に「暮らす」というのも普通、あり得ない。このあり得ない斡旋が、意味性や象徴性の過剰なオーラになっていないか。或いは、言葉の選びや配置における審美眼を味わう、またはイメージを遊ばせる、という方向で読んでしまえばよいのだろうか。荻原裕幸という人が、しっかり前衛短歌をくぐってきた人だということを再認識しつつ。
みづが撓むやがて傾きながら冷える秋の街ゆくからだの闇に
文体に身体の感覚を流し込むようにして作られている。上句の破調が生む揺れ、定まらない感じが、詠われた内容に臨場感をもたらそうともする。秋の街をゆく私の身体、そこに闇があるような感覚がまずあって、闇には水がひそやかな動きをしながら冷たく溜まっている。秋の冷えを受ける身体のしんと心細いような、しかし冴えのあるシャープな感覚が、「みづ」の様態で表現されていて詩的である。しかしながら、つくられ過ぎていて体感性に欠けるのではないか。「からだの闇」が例えば、みぞおちあたりに、といった具体的な箇所であれば違うのではないか、とか、水が「撓む」か「傾く」か「冷える」のどれか一つの様子であればどうか、とか思うが、この人の表現においてはそれでは足りない感じなのであろうし、体感や実感よりも、詩性やセンスの方が大切にされているのかもしれない。それはそれでいい。だけどやっぱし、上句とかやり過ぎでない(しつこい)?
なみの亜子 1963年愛知県生まれ。99年塔短歌会入会。2003年短歌評論誌『D・arts』参加。04年『塔』創刊五十周年記念評論賞受賞。05年第23回現代短歌評論賞受賞。06年第一歌集『鳴(メイ)』。
山本さん、ご説明ありがとうございます。
妖刀のくだりを読んでから「なり」のコメントを読み直しました。私が外していたようです、無粋ですみません。
投稿情報: (た) | 2008年12 月 6日 (土) 10:58
(た)さん、お気遣い、および、「なり」についてのご指摘、ありがとうございます。
文法に忠実に読むなら「、ごみの日也の明るさ」(助動詞的に読む)というのは不自然ということで決着するのかもしれません。ただ、必ずしも文法に忠実な読者ばかりではないのと、変態的な読みを否定するのも芸術的でないので、いろんな読みがあってもいいのかと思います。
もちろん、それを不特定多数に発表する場合、作者の気分を害さないことにも留意すべきなので、私としても、そこは気をつけていきたいと思います。
投稿情報: 山本剛 | 2008年12 月 4日 (木) 01:21
名前に関して。山本さんが気になさる心配はありません。インターネットは元来実名、パソ通はハンドルネームでして、私はネットからですので、90年代後半からのネットのハンドル文化には違和感を感じていたのですが、思うところあって固定ハンドルにて現在に至っております。
「なり」に関して。助詞と助動詞では捉え方に違いが生じるように感じました。
勝手に総括しますが、今回は「小さくても充実した短歌空間」に必要な要素が十二分に感じられました。
投稿情報: (た) | 2008年12 月 3日 (水) 01:58
硬質な名前が連続してしまい誠にすみません。
第一首の音声面と、全体像について書かせてください。
ごみのひはごみのひなりのあかるさにあさのわたしをならしてあるく
31音のうち12音が「あ」段であることによる開放感はさることながら、
第二句までの助走から一気に後半に「あ」段が、それもほぼ連続の2音として表れることで、
明るさの加速感が、音の面からも、(むしろ、こっちが主導して)表現されています。
後半のクライマックスへの包装紙のようなゆったりした第二句までにも、
「なら」してあるく、とささやかに呼応するような、ごみの日「なり」もあり、
一首目は音声面で存分に味わえる首となっています。
余談ですが、「ごみの日なり」を「ごみの日也」とコロすけ(? あまり詳しくはありません)風に
言っている主体を想像すると、明るすぎて相手が声をかけづらい懸念があるかもしれません。
さて、作者にまつわる全体像ですが、この連作に付随する情報も合わせて考えるなら、
「秋容」からゆるやかに浮かび上がる「秋に照射された定型の容れもの」に、
「わたし」を力んで流し込むことなく、かといって周囲に「無自覚な融合」をすることなく、
泥水ていどの差異をたもったまま世界を掬い取ろうとしているように感じます。
そのような姿勢には、「わたしを流す込む余地が少ない」と思われる俳句との接触が、
影響しているのかもしれません。
思想の差異や表現の鮮度により、オリジナリティーを声高に叫ぶのではなく、
世界・風景をもふくめた「他」との交わりの度合いを楽しむようなところに、
現在の荻原裕幸さんの姿が見えるような気がします。
投稿情報: 山本剛 | 2008年11 月25日 (火) 01:51
2,3首目についてのつたない読みをもう少し書かせていただきます。
2首目「左右なきやすらぎ」について。危険は「左右」を気にしなければならないものですが、そこを抜けて「やすらぎ」に出ればそこは「左右なき」無限の広がりを持っていると解釈していました。
ただ、平面だからこその「侵食されないやすらぎ」という観点も面白いと思いました。
3首目について。
この首には、体を内部から見たような「みづ」の身体感覚であふれている印象を受けました。
(ここからはあとづけ)だからこそ手探りでとらえた「からだの闇」ではないのかと思えます。
次に動詞の数についてですが、短歌の世界には「動詞3カウント以上はアウト」の暗黙のルールがあるように感じるので、あえてそれを受けた上で、ためしにプロレスで考えてみようと思います。(あまり詳しくはありません)
まず「みづが撓む」でバックドロップの持ち上げが完了。
これで「冷える」につなげるなら「投げっぱなしバックドロップ」(危険)
「傾きながら冷える」で着地。ここは「撓む→傾きながら→冷える」で3カウントとするよりは、1・5~2カウントととらえるべきでしょう。
つまり、一連の動きが連続していて、不可分だといえます。
「撓む」を作用とするなら「傾きながら冷える」は反作用とでもいえそうです。
投稿情報: 山本剛 | 2008年11 月23日 (日) 00:06