ながらくお待たせしました。
私事により更新が滞っておりました。
今回の三首評は、第50回短歌研究新人賞を受賞された吉岡太朗さん。リアルのポイントを丁寧に解読している点は注目です。
魚村晋太郎「日記」評 吉岡太朗
記憶では川だつた場処まだわかい欅の幹にあなたはふれる
回想する主体と、目の前にある木に手をふれるあなた。
どこか疲れたような印象のある主体だが、あなたの動作を見ることによってそれがほぐれていく様が読み取れる。
春先のことだろう。主体の内面の動きは、季節の動きと密接である。
セーターのむねの起伏がなぜだらう知らないひとのやうで春霖
親しいはずの人に他者性を見出すという歌だが、発見の驚きのようなものが歌われているわけではない。新たな認識によって、刺激を受けているというよりは、春の雨によって知覚をけぶらされているようなそんな印象がある。
「セーターのむね」という性的とも読めるモティーフからは、若干の幼児性や動物性のようなものを感じ取れるが、これは春霖による撹乱の結果、主体の中に生まれてきたものなのだろう。生々しい欲望の発露というわけではなく、理性による抑圧があり、それがかえってリアルである。
また「なぜだらう」という一見不必要な挿入は、長雨の物憂い空気を伝えている。
死んだひとが日記に書いた春の雨にあなたの肩がぬれてゐたこと
下句の情景がリアルなのは、「あなた」ではなく、「春の雨」を日記中の主語としたことだろう。それによって日記世界に広がりが生まれる。さらに、そこから「肩」というピンポイントへ視点を収斂させる手法により、細部的なリアリティを構築している。「ゐたこと」と過去形にしていることも見逃せない。ここで過去形が用いられることで、情景が、故人が生きていた頃の現実とリンクされる。
「死んだひと」というぞんざいな言い方は、そっけなさ、冷淡さというよりも、主体の故人への感情処理の結果でてきた語彙と取りたい。そう読めば、そこには故人との親密性が汲み取れる。
またこの語彙は、死のイメージを強く残しながらも、歌の重点を下句に置かせる機能も果たしている。思い入れの強い言葉を使えば、重点がブレかねない。
プロフィール:
吉岡太朗
1986年8月27日生。京都市伏見区の水のある場所在住。第50回短歌研究新人賞受賞。
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