第19回の + a crossing は、錦見映理子さんの短歌作品三首です。
都会の夜の風景が、天地創生の物語にまで遠くつながるような作品です。どうぞお読みください。
歌評は、高島裕さんを予定しています。
「夜の神話」
渦状の銀河のなかにいるような夜の渋谷の交差点かな
右脚を何度も上げて駅ビルのヨガ教室に目を閉じている
金銀の硬貨ちらばり一瞬で別人になる神話いくつも
錦見映理子(にしきみ・えりこ)未来短歌会所属。歌集『ガーデニア・ガーデン』
第19回の + a crossing は、錦見映理子さんの短歌作品三首です。
都会の夜の風景が、天地創生の物語にまで遠くつながるような作品です。どうぞお読みください。
歌評は、高島裕さんを予定しています。
「夜の神話」
渦状の銀河のなかにいるような夜の渋谷の交差点かな
右脚を何度も上げて駅ビルのヨガ教室に目を閉じている
金銀の硬貨ちらばり一瞬で別人になる神話いくつも
錦見映理子(にしきみ・えりこ)未来短歌会所属。歌集『ガーデニア・ガーデン』
ごぶさたしております。 今回の歌評は、錦見映理子さんです。作者の立ち位置を問いかけながら、丁寧に読んでくださっています。どうぞお読みください。ご意見などはコメント欄へどうぞ。
五島諭「コント」三首評 錦見映理子
傘の用途(詞書)
グリップをかるく握って笹の葉の揺れるあたりをさっ、と振り抜く
「傘の用途」と詞書があるから、この「グリップ」は当然、傘の柄のこと。道沿いに笹が生えているのだろう。
「振り抜く」という言葉には「振り切る」と「振り放す」
これは普通に読んで皮肉だろう。傘の用途なわけがない。「
時間を敵にまわす稚拙な生き方の 花の写真のあるカレンダー
時間を敵にまわす生き方とはどういうものか。
ただ、この歌が面白みに少し欠ける原因はそこだけではなくて、
歓迎会兼送別会の出しものは、加藤・三ヶ田
日記に書いたことがたまたま定型になっていた、ような歌だ。
これをアララギである、と考えてみよう。例えば斎藤茂吉の「
ところで以上三首には、一字空けと読点による、
錦見映理子(にしきみ・えりこ) 未来短歌会所属。歌集『ガーデニア・ガーデン』
17回目の歌人は五島諭さんです。
歓送迎会ではなく歓迎会兼送別会という言い方にちょっとした哀感を感じました。
いまや全員コント時代なんですね。http://ja.wikipedia.org/wiki/コント
「コント」
傘の用途
グリップをかるく握って笹の葉の揺れるあたりをさっ、と振り抜く
時間を敵にまわす稚拙な生き方の 花の写真のあるカレンダー
歓迎会兼送別会の出しものは、加藤・三ケ田のコントが受けた(三ケ田=みかだ)
プロフィール
五島諭(ごとう・さとし) 1981年6月28日生まれ。「pool」同人。ガルマン歌会に出ています。
わたくしの一身上の都合と、Typepadさんの一身上の都合の相乗効果により、掲載が遅れて申し訳ございません。
お待たせいたしました。今回の評者は、五島諭さんです。理知的な中にもグルーブ感のある短歌評は、巷にもよく知られるところ。
運営されているウェブサイト「短歌行」にリンクしています。そちらも合わせてご覧下さい。
吉岡太朗 三首評 五島諭
クリックに音あることの快楽にニュースサイトを見てまわりたり
カチッ、という小さな音がディスプレイに世界中のニュースを生み出す。インターネットでニュースを読むということは、狭い個室から、居ながらにして世界中の情報をキャッチできるということであり、それ自体としての快感もあるだろうが、この歌の焦点はむしろ、カチッ、という小さなクリック音に向けて絞られる。
私の祖母が仏壇の前で経を唱えていた様子が思い出される。祖母は経を唱えながら、たまにこぶしで膝を打った。その鈍い音が次の経文を導いているように見えた。読経はときに数時間にも及び、そんな場合、祖母の声は嗄れかけていたが、容易には近寄りがたい雰囲気を醸してもいた。こぶしで膝を叩く鈍い音の連鎖が、祖母をそういう状態にまで引き上げていたのではないかとも思う。
次々と新しいニュースサイトを開く「私」は、目の前に現れた文字を「読む」のではなく、「見てまわ」る。つまりこの主体がニュースサイトを開く目的は情報ではなく、おそらくは、経を唱えているときの祖母ほど強いトランスではないにせよ、やはり、世界と接触することによる淡いトランスなのではないか。そのことを表現しえたという点で、「見てまわりたり」は巧みだ。そして、その淡いトランスを生み出す快楽の原点として、カチッ、という小さなクリック音の連鎖がある。
ポンカンをひくい位置より渡されてあなたと同じこたつに入る
先にこたつに入っている「あなた」が差し出してくるポンカン。「あなた」は座っているから、「私」がポンカンを受けとろうとすると少し屈むような姿勢になる。その動作からこたつに入る動作への移行は自然だ。ポンカンを渡されたにも拘らず、結局そのポンカンを持ったままこたつに落ち着いてしまう。そんな場面が捉えられていて楽しい。
「私」は「あなた」を好きで、同じこたつに入りたいのだけれど、恥ずかしくてためらっていると、「あなた」の方が一枚上手で、ポンカンを渡すふりをしながら「私」をこたつに入るように促す、という感じで、内面を補って読むこともできる。歌自体は、「あなた」の内面も「私」の内面も明示しているわけではないのに、こちらがその書かれていない内面を想像してしまうのは、「あなた」と「私」の一連の動作から、たしかに内面を持っている二人の人物の存在が感じられるからだ。その内面の感触が、この一場面を得がたい、貴重なものにしているのだと思う。
ポンカンが香る。
堤防のS字の坂にさしかかりひとが自転車をおりるつかのま
河川の洪水を防ぐために築かれた堤防だろうか、周囲より小高くなっているので、堤防の上へ行くには坂をのぼらなければならない。坂はゆるやかにくねっている。ひとりの人が自転車に乗ってその坂にさしかかり、坂のくねりを途中までなぞっていったが、足がきつくなってきたのか、ふっ、と自転車から降りる、という場面。その一部始終をどこからか眺めていたのだろう。
しかし、ただ眺めていただけでは歌にならない。なぜこの場面が歌になったのかと考えると、ここでも内面というものが関係しているように思う。おそらく作者は、「ひと」が自転車を降りる動作に、その人の内面の変化を読みとったのだ。「あ、もうだめだ、降りよう」なのか、「ここらから押していくか」なのか、正確なところは分からなくても、自転車を降りる瞬間、「ひと」の内面には何らかの変化が起きたはずだ。そのわずかな変化に作者の内面が呼応した、小さな奇跡。
ただ、「堤防のS字の坂」という表現からは、「堤防」と「坂」の位置関係が見えてこない。「堤防の」の「の」のところに、情報が不足しているからだ。「の」の一字だけでは、作者の眺めていた情景と同じものを、読者が感じ取ることは難しい。また、「つかのま」というまとめ方は、この歌の場合、焦点を時間に当てているのか場面に当てているのかの判別を難しくしているように思えた。
プロフィール
五島諭(ごとう・さとし) 1981年6月28日生まれ。「pool」同人。ガルマン歌会に出ています。
第15回の歌人は吉岡太朗さんです。
歌の主題からは遠く離れて
ひとつひとつの風景を、より小さな画角に切り取ることで
手触り感や色や空気を届けようとする、そういう三首に思われました。
どうぞお読みください。
「無題」 吉岡太朗
クリックに音あることの快楽にニュースサイトを見てまわりたり
ポンカンをひくい位置より渡されてあなたと同じこたつに入る
堤防のS字の坂にさしかかりひとが自転車をおりるつかのま
プロフィール 吉岡太朗
1986年8月27日生。京都市伏見区の水のある場所在住。第50回短歌研究新人賞受賞。
ながらくお待たせしました。
私事により更新が滞っておりました。
今回の三首評は、第50回短歌研究新人賞を受賞された吉岡太朗さん。リアルのポイントを丁寧に解読している点は注目です。
魚村晋太郎「日記」評 吉岡太朗
記憶では川だつた場処まだわかい欅の幹にあなたはふれる
回想する主体と、目の前にある木に手をふれるあなた。
どこか疲れたような印象のある主体だが、あなたの動作を見ることによってそれがほぐれていく様が読み取れる。
春先のことだろう。主体の内面の動きは、季節の動きと密接である。
セーターのむねの起伏がなぜだらう知らないひとのやうで春霖
親しいはずの人に他者性を見出すという歌だが、発見の驚きのようなものが歌われているわけではない。新たな認識によって、刺激を受けているというよりは、春の雨によって知覚をけぶらされているようなそんな印象がある。
「セーターのむね」という性的とも読めるモティーフからは、若干の幼児性や動物性のようなものを感じ取れるが、これは春霖による撹乱の結果、主体の中に生まれてきたものなのだろう。生々しい欲望の発露というわけではなく、理性による抑圧があり、それがかえってリアルである。
また「なぜだらう」という一見不必要な挿入は、長雨の物憂い空気を伝えている。
死んだひとが日記に書いた春の雨にあなたの肩がぬれてゐたこと
下句の情景がリアルなのは、「あなた」ではなく、「春の雨」を日記中の主語としたことだろう。それによって日記世界に広がりが生まれる。さらに、そこから「肩」というピンポイントへ視点を収斂させる手法により、細部的なリアリティを構築している。「ゐたこと」と過去形にしていることも見逃せない。ここで過去形が用いられることで、情景が、故人が生きていた頃の現実とリンクされる。
「死んだひと」というぞんざいな言い方は、そっけなさ、冷淡さというよりも、主体の故人への感情処理の結果でてきた語彙と取りたい。そう読めば、そこには故人との親密性が汲み取れる。
またこの語彙は、死のイメージを強く残しながらも、歌の重点を下句に置かせる機能も果たしている。思い入れの強い言葉を使えば、重点がブレかねない。
プロフィール:
吉岡太朗
1986年8月27日生。京都市伏見区の水のある場所在住。第50回短歌研究新人賞受賞。
新旧のお正月休みで、長らく更新していませんでしたが、+a crossing 再開します。
第13回の歌人は、魚村晋太郎さんです。死んでしまった人の日記のそばに「あなた」を偶然見つけてしまったとまどいも、美しいことのように思われる三首でした。
どうぞお読みください。
日記 魚村晋太郎
記憶では川だつた場処まだわかい欅の幹にあなたはふれる
セーターのむねの起伏がなぜだらう知らないひとのやうで春霖
死んだひとが日記に書いた春の雨にあなたの肩がぬれてゐたこと
魚村 晋太郎
1965年川崎市生まれ。90年代から現代詩の朗読を行い、能やダンスなど他ジャンルとのコラボレーションも手がける。歌集に『銀耳』(現代歌人集会賞)、『花柄』。「玲瓏」編集委員。現代歌人協会会員。
+a crossing 第12回にお招きした評者は、魚村晋太郎さんです。
なみの亜子「冬川」評 魚村晋太郎
喪主なりし日のこと語りはじめたる人に舟影さがす目見(まみ)あり
喪主なりし、というのだから、配偶者か親、近親者を亡くしたときのことだろう。すでに過去になりつつある、その日のことを語る人が目の前にいる。
目見とは、まなざしのことである。過去のかなしみをたぐりよせるような相手のまなざしを、舟影さがす目見、とはうまく言ったものだ。二人が実際に海辺にいるのかどうかはわからない。川辺とか、他の可能性もあるが、いづれにしてもこの部分は表情についての比喩として読みたい。水平線にちかい遠いきらめきのなかに舟影をさがすような表情、を主人公は見てとったのだ。やや演出的にすぎる感じもしたが、遠くを見るような目、とか、遠い目、とか言って俗に流れることを周到にさけている。
或いは、聞き手の方に関わる別の葬儀の話題が先にあって、わたしのときは・・・、と相手は話しはじめたのかも知れない。そう決めつける必要はないが、喪主なりし日、という入り方には、夫逝きし日、とかいうのとはちがう複雑な陰影がある。
「喪主なりし・日のこと/語り・はじめたる・人に/舟影さがす・目見あり」と、意味の区切れと定型の区切れにやわらかなずれのあることも、一首にたゆたうような時間の手触りを与えている。
底ぬけのさびしさにある冬川のなんと重たき水かとおもう
冬の川は普通、ほかの季節にくらべて水量が少ないが、この一首の場合はある程度の水量のある大きな川なのだろう。例えば関西で言えば、淀川などを思い浮べた。たしかに、つめたい冬の水は春や夏の水にくらべて、人を拒むような重たい印象がある。重たさはもちろん、作者のこころの反映でもある。
底ぬけのさびしさのなかにあるような冬の川、といったん風景に託された感情が、なんと重たき、とあらためて自身の感情に回収される。上句も下句も渾身の修辞だが、上句はフライングというか、下句の内容を先に言ってしまっているような印象も否めなかった。
とは言え、助詞の「に」の使い方や、「なんと重たき」の挿入の仕方は手練である。
犬はまだ海を知らない 小さき橋渡って渡りかえしてあそぶ
まず感じたのは、寺山修司の「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」のおもかげであるが、それはさておき。
渡りかえす、という語は一寸なじみのない語だが、用例はあるようだし、ここでは犬の動きをうまく表している。複合動詞によるやわらかな句跨りは、一首目の、語りはじめたる、に通じる。
小さき橋、だから、流れも大きくはない。犬の様子からみても、数歩で渡れてしまうような、小川か支流だろう。小さな流れは大きな川に注ぎ、やがて海へいたる。小さな橋を行き来して無邪気に遊んでいる犬は、この流れのはたてにある海を見たこともなければ、おそらく想像したことさえないにちがいない。
で、ここでいう海とはなんだろう。もちろん海は海でいいのだが、その向こうに「死」をおいて読んでみてはどうか。一首目の余韻をくみとってのことだが、そのように読むと、「冬川」三首にいっそうの奥行きが見えてくるような気がする。
人間は、自分が死ぬずっと前から、いつか自分が死ぬことを知っており、死について考えるし、多くの場合、自分の死に先立って大切な人の死に立ち会う。一首目の登場人物しかり、聞き手である主人公も、おそらく大切な誰かの死に立ち会ったことがあるのだろう。犬だって、親兄弟や飼い主の死を悲しむことはあるかも知れないが、無邪気に遊んでいるこの犬はいまのところ、時間のはたてにある死について、まるで頓着する様子がない。
犬はまだ知らない、とは、私はすでにそれを知っている、ということである。
冒頭に喪主の語があり、舟も橋も、此岸と彼岸を渡すものであるので、死を向こうにおいて私も読んだが、向こうにおいて、くらいが、この三首の魅力をもっとも引き出す読み方ではないか。
付かず離れずに響きあう印象的な三首であった。
魚村 晋太郎
1965年川崎市生まれ。90年代から現代詩の朗読を行い、能やダンスなど他ジャンルとのコラボレーションも手がける。歌集に『銀耳』(現代歌人集会賞)、『花柄』。「玲瓏」編集委員。現代歌人協会会員。
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