+a crossing 第12回にお招きした評者は、魚村晋太郎さんです。
なみの亜子「冬川」評 魚村晋太郎
喪主なりし日のこと語りはじめたる人に舟影さがす目見(まみ)あり
喪主なりし、というのだから、配偶者か親、近親者を亡くしたときのことだろう。すでに過去になりつつある、その日のことを語る人が目の前にいる。
目見とは、まなざしのことである。過去のかなしみをたぐりよせるような相手のまなざしを、舟影さがす目見、とはうまく言ったものだ。二人が実際に海辺にいるのかどうかはわからない。川辺とか、他の可能性もあるが、いづれにしてもこの部分は表情についての比喩として読みたい。水平線にちかい遠いきらめきのなかに舟影をさがすような表情、を主人公は見てとったのだ。やや演出的にすぎる感じもしたが、遠くを見るような目、とか、遠い目、とか言って俗に流れることを周到にさけている。
或いは、聞き手の方に関わる別の葬儀の話題が先にあって、わたしのときは・・・、と相手は話しはじめたのかも知れない。そう決めつける必要はないが、喪主なりし日、という入り方には、夫逝きし日、とかいうのとはちがう複雑な陰影がある。
「喪主なりし・日のこと/語り・はじめたる・人に/舟影さがす・目見あり」と、意味の区切れと定型の区切れにやわらかなずれのあることも、一首にたゆたうような時間の手触りを与えている。
底ぬけのさびしさにある冬川のなんと重たき水かとおもう
冬の川は普通、ほかの季節にくらべて水量が少ないが、この一首の場合はある程度の水量のある大きな川なのだろう。例えば関西で言えば、淀川などを思い浮べた。たしかに、つめたい冬の水は春や夏の水にくらべて、人を拒むような重たい印象がある。重たさはもちろん、作者のこころの反映でもある。
底ぬけのさびしさのなかにあるような冬の川、といったん風景に託された感情が、なんと重たき、とあらためて自身の感情に回収される。上句も下句も渾身の修辞だが、上句はフライングというか、下句の内容を先に言ってしまっているような印象も否めなかった。
とは言え、助詞の「に」の使い方や、「なんと重たき」の挿入の仕方は手練である。
犬はまだ海を知らない 小さき橋渡って渡りかえしてあそぶ
まず感じたのは、寺山修司の「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」のおもかげであるが、それはさておき。
渡りかえす、という語は一寸なじみのない語だが、用例はあるようだし、ここでは犬の動きをうまく表している。複合動詞によるやわらかな句跨りは、一首目の、語りはじめたる、に通じる。
小さき橋、だから、流れも大きくはない。犬の様子からみても、数歩で渡れてしまうような、小川か支流だろう。小さな流れは大きな川に注ぎ、やがて海へいたる。小さな橋を行き来して無邪気に遊んでいる犬は、この流れのはたてにある海を見たこともなければ、おそらく想像したことさえないにちがいない。
で、ここでいう海とはなんだろう。もちろん海は海でいいのだが、その向こうに「死」をおいて読んでみてはどうか。一首目の余韻をくみとってのことだが、そのように読むと、「冬川」三首にいっそうの奥行きが見えてくるような気がする。
人間は、自分が死ぬずっと前から、いつか自分が死ぬことを知っており、死について考えるし、多くの場合、自分の死に先立って大切な人の死に立ち会う。一首目の登場人物しかり、聞き手である主人公も、おそらく大切な誰かの死に立ち会ったことがあるのだろう。犬だって、親兄弟や飼い主の死を悲しむことはあるかも知れないが、無邪気に遊んでいるこの犬はいまのところ、時間のはたてにある死について、まるで頓着する様子がない。
犬はまだ知らない、とは、私はすでにそれを知っている、ということである。
冒頭に喪主の語があり、舟も橋も、此岸と彼岸を渡すものであるので、死を向こうにおいて私も読んだが、向こうにおいて、くらいが、この三首の魅力をもっとも引き出す読み方ではないか。
付かず離れずに響きあう印象的な三首であった。
魚村 晋太郎
1965年川崎市生まれ。90年代から現代詩の朗読を行い、能やダンスなど他ジャンルとのコラボレーションも手がける。歌集に『銀耳』(現代歌人集会賞)、『花柄』。「玲瓏」編集委員。現代歌人協会会員。
川の具体名を挙げてもらえたのがありがたく思います。私はなぜか十津川を思い浮かべました。「ある」というところで、分かれたのかもしれません。
「犬はまだ海を知らない」の解釈、納得しました。婉曲が読めませんでした。"The Lord is my shepherd"ですね。
投稿情報: (た) | 2008年12 月31日 (水) 16:20