+ a crossing 第9回大辻隆弘さんの作品評は、光森裕樹さんです。
大辻作品に漂う不思議な雰囲気がどこから生じているか、知的に解いてくださいました。どうぞお読みください。
《大辻隆弘さん3首評 光森裕樹》
鳥のこゑ西にながれて夕ぞらはしだいに青のさめゆく平(たいら)
西へ飛びゆく鳥の声の空間的遷移を聴覚でとらえ、暗くなってゆく夕ぞらの時間的遷移を視覚でとらえている。鳥の行く先に顔を向け、そのまま夕ぞらを見つめ続ける主体の行動を、読み手は追体験できる。
最後の一語の「平(たいら)」に謎がある。「夕ぞら」が「平(たいら)」とはどういう場面を浮かべればよいだろうか。
「夕ぞら」と言いつつ、暗くなってゆく「青」に着目していることから、夕陽もほとんど沈んだ状態だと想像できる。暗みを増してゆく青を見つめる主体は、空を一枚の広大な平面のように感じているのだろう。
消えてゆく鳥の声と、空の色とがどことなく淋しい一首である。
しみじみと受け持つ生徒に説教を垂れをり夢に涙してわれは
歌意はシンプルで「夢の中で、私は涙しながら、受け持つ生徒に、しみじみと説教を垂れている」ということになる。なんだそれでは歌の中の言葉をシャッフルしただけではないか、という声が聞こえてきそうであるが、この歌の妙味はそこにある。
初句の「しみじみと」まで読むと、脳はおのずと「しみじみと」がかかる動詞を求める。まずは二句目の「受け持つ」を、脳はその候補にあげるだろう。ところが「しみじみと受け持つ」では、なんだか言葉の組み合わせが不自然であり、どうも違うような感じがする。
そこで脳は、「しみじみと」と「受け持つ」とに再度分離し、それぞれを手札として置いておくことになる。歌を読み進めることで「しみじみと」が「説教を垂れをり」に掛かるのだとわかるまでに、あれやこれやの試行が発生する。
四句から結句にまたがる「夢に」「涙して」も、やはり語順としては不自然であり、同様である。短歌は定型詩であるのだから、このようなことは意図せずとも起こるのではあるが、作者はそのことを積極的に利用してこの一首を立ち上げている。
「しみじみと受け持つ」「夢に涙」するという、この一首で"起こっていない"ことの存在が、一首を"夢落ちの歌"となってしまうことから救い、夢特有のもやもやとした雰囲気を保存する装置となっているように感じる。
自身の説教を、どこか離れた視点で冷静に見ている主体がいる。どうやらその主体は、今、夢の中に居ることにも気付いている。涙してまで説教をする主体と、そこから二重の意味で醒めている主体。その対比を面白く読んだ。
わななきてなだりの草にさす陽ざし或いは朝をひびかふ木霊
斜面の草にあたる光の揺らぎを主体は見ている。「揺らぎ」と書いたが、「わななき」とあるので、もう少し心がざわめくような光の動き具合なのだろう。その心のざわめきが、木霊の存在の感知へと繋がる。
歌には、「こだま」や「谺」ではなく「木霊」という漢字が撰ばれており、そこにはやはり音としての「こだま」だけではなく「精霊」としての「こだま」が意識されている。
淋しげな暮れ方を詠んだ一首目、泣く主体とそれを見つめる主体とが分離した夜の二首目、そして、超自然的な趣きのある朝を詠んだ三首目。日常生活を時間軸に沿って綴りつつも、世の中から遊離しているような感覚が印象に残る三首であった。
- 大辻隆弘(おおつじ・たかひ ろ) 1960年三重県松坂市生まれ 現代歌人協会会員 日本文芸家協会会員 著書に、歌集『水廊』 『デプス』(第8回寺山修司短歌賞) 『抱擁 韻』(第24回現代歌人集会賞) 『夏空彦』 評伝『岡井隆と初期未来ー若き歌人たちの肖像』など。
- 光森裕樹(みつもり・ゆうき) 1979年兵庫県生まれ。所属誌なし。第54回角川短歌賞受賞。
最近のコメント