+a crossing 第12回の歌人は、なみの亜子さんです。
どうぞお読みください。
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「冬川」 なみの亜子
喪主なりし日のこと語りはじめたる人に舟影さがす目見 (まみ)
底ぬけのさびしさにある冬川のなんと重たき水かとおもう
犬はまだ海を知らない 小さき橋渡って渡りかえしてあそぶ
冬の斜陽のなかにある河口の町の風景が見えてくるように思われましたが、読者の方はいかがですか?
次の更新は今月下旬、歌評は魚村晋太郎さんの予定です。
なみの亜子 1963年愛知県生まれ。99年塔短歌会入会。2003年短歌評論誌『D・arts』参加。04年『塔』創刊五十周年記念評論賞受賞。05年第23回現代短歌評論賞受賞。06年第一歌集『鳴(メイ)』。
この企画のおもしろいところは、ときに辛口な評論のあと、ある意味「ハードル」があがった状態で、「じゃあおまえ、歌ってみな」みたいな素朴な(潜在的な)欲求を実現しているところだろうと思います。
ひとことでいうと、芸のある企画です。
投稿情報: 山本剛 | 2008年12 月16日 (火) 02:42
一首目、「舟影さがす目見」には孤独感が滲んでいるように感じます。舟影も彼岸も此岸から見えない。見えないのは、きっと遠かったり霧がかかっていたりするからで、寒い朝の川面に霧がかかる設定でもいけるような気もしますが、そこまでは描かれていない。「まみ」には根の国を連想し、神仏習合の雰囲気です。同舟エピソードは源氏物語に見つけました、なるほど。
二首目、「さびしさ」。さみしさよりも蕭々たる感じになります。さびしさ「に」ある。冬、山道を走っていると、車道から谷底が見えず、やっと見えた谷底の川の水は遠く黒い。そんな光景を思い出しました。「おもう」と敢えて入れることで、「重たき」とリズムを感じます。山本さんが「一気に突き放すようなブレーキのかけ方」と云われたのに同感です。
三首目、犬がまだ海を知らないのは、わたしが犬を海に連れて行かないからだと考えてみる。犬があそぶのを見ながら、車で一時間余りかかる海を一瞬にして思い浮かべているような。「渡って渡りかえして」のリフレインが心地良い。渡ってすぐ渡りかえして小さき橋であそぶ犬というと、仔犬のような気がするが、それだと老犬はどこへ行ったのか心配なので、老犬があそんでいることにしてみる。動詞の数は山本さんに指摘されて気がつきました、不思議です。面白いですね。
モチーフの連鎖に関しては、評者が作者になることで評を書いた作品が暗示的に出てくるんでしょうか、島さん考えましたね。山本さんもすぐに気づいているという…。私は何回も経ってやっと感づきました。
投稿情報: (た) | 2008年12 月13日 (土) 13:11
誠にすみません。
5行目 「一字明け」→「一字あけ」
10行目・18行目の「底抜け」→「底ぬけ」
に、それぞれ訂正いたします。
投稿情報: 山本剛 | 2008年12 月 9日 (火) 06:07
まず、一首単位で、喩なしで読んだ場合にも、それぞれに心地よい含みがあります。
1首目の、「し」の過去・「はじめたる」の直前からの存続・「あり」の現在(さらには「舟影さがす」に見られるような、亡き人と同舟に乗り合わせる「自らの死」をも含む未来)という時間の織り込み方
2首目の、直前まで歌い上げ、最後に「とおもう」で一気に突き放すようなブレーキのかけ方
3首目の、「子」ではなく「犬」、一字明けといった「必然」の意識に、
ただならぬダイナミズム(アナウンサー泣かせの語感ですみません)を感じました。
ここからは、現時点では禁断の領域かもしれませんが、
3首を貫く喩といった観点で、連作的に読んだ場合、
「海」は死、「底抜けのさびしさにある冬川」は独りのこされ、先がそう長くない人生、
「水」は時間の喩であるともとれます。そしてその時間の中を、
自分は海に浮かぶ舟影に向かう存在であるとして、たんたんととらえているように思います。
ただ、特に3首目などは、特定の文脈にいれて読まない方が
いきいきと「首」が機能するという見方もできるかもしれません。
ちょうど、飼い主から離れて(でも首輪はついている)犬が遊ぶように。
最後に、余談になりますが、2首目の「底抜けのさびしさ」の斡旋・「水」のモチーフ、
何より3首目の動詞の数、やられました。
投稿情報: 山本剛 | 2008年12 月 9日 (火) 05:58