a crossing 第6回花山周子さんの作品評は、高田祥さんが執筆してくださいました。どうぞご覧下さい。
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ねむりながら顔がくぼんでゆく人が引力となりわれは見下ろす
ごつごつした文体である。「が」が上の句で三か所もでてくる。
短歌的に手慣れている人ならば、「が」を減らして韻律を整えようとするだろう。
「ねむりながら顔のくぼんでゆく人の引力 われ〜」とか。いくつかやりようはあるだろう。「が」より、「の」のほうが昔から短歌と仲がいいのだ。
でも、そもそも、「韻律が良い」って何だろね?とも思ってもみる。
まず、「顔が」のほうが「顔の」より現場感がある(実際、目の前にしていたら、「あ、顔の」とは言わないだろう。「あ、顔が」と言うはずだ)。じゃあ、「人が」はどうだろう。
これもやっぱり現場性としか言いようがない。「人の引力」だと、上手くまとめた感じがする。(でも、そういう作家性の人ならそれでも構わないのだが)。
こうやってつらつら考えてると、やっぱり「が」の連発でいいように思い直してしまうから不思議だ。
花山周子はけっこう文語を使うんだけど、作歌にあたっては現場性重視、意識の流れの記述を優先し、いわゆる「文語的にうまくまとめる」タイプでないことがわかる。現場感がでているか。それが花山周子的「韻律の良さ」である。韻律が良い、とは一通りのものではないのだ。
ようやく歌の解釈に入る。、「顔がくぼんで」は悪い夢でも見ているのかもしれない。
嬉しそうな表情とは考えにくい。なんだかつらそうだ。「人」は恋人でも家族でも友人でもよいのだが、つまり、そのつらそうな顔を作中主体は心配している。いや、心配しているというより、この「引力」という語感から察するに、「どうしてこうなるんだろう」の不思議発見的好奇心のほうが優先されているように思える。引力に引っ張られているわりには、結句「見下ろす」があまりに余裕があるのだ。しかも、「われは見下ろす」って書けるってことは、その「われ」をさらに客観視している冷静さがあるわけだ、作者は。「顔がくぼんでゆく人」もそれに引っぱられる「われ」も、どちらも不思議でたまらないのだ。
この作者はまだ身の回りの「不思議」につきあう心性を失ってないらしい。
クリスマスケーキに載っていたものは仁丹なのか疑問に思う
「棒立ちの歌」*っぽい。やばいなあ、と思う。棒立ちの歌は散文的で無防備(一見)だから、それを批判すると、なんだか自分が悪者になった気がするのだ。悪者になりたくないから、なんとか「味」を発見しようと歌評者としてはやっきになる。
結句、「疑問に思う」とあるから、前評と同じように、不思議に立ち向かう系の歌にみえるが、そうではないように思う。「疑問に思う」が強すぎる。たしかに、クリスマスケーキにこまごまと載せられている色とりどりのアレは仁丹っぽいのだが…でもやはり仁丹は載せないだろうという常識(?)は働くのではないか。(ネットで調べてみると、その、アレは「アラザン」といい、コーンスターチを混ぜ合わせた粒子状の砂糖に食用銀粉を衣がけして作らるものらしい。)もし、「見たて」としてこのアイテムをもってきているなら、あまり成功していない歌だと思う。「疑問に思う」と書いてる時点で見破っていると思うのだ。
いやでも。クリスマスケーキは見た目もデコレーションだけど、食べ物としてもデコレーションだ。それに比べ、仁丹は、なんていうか、小うるさそうだけど生命に効く、関わりがあるという感じがする。
それが小粒なだけになおさら。「疑問に思う」と書いておきながら、実は、「クリスマスケーキ」と「仁丹」を二物衝撃的にぶつけ、食の本質を曝している妙のある歌、のような気がしてきた。評を書いているうちに。読み返すほどに、仁丹の不敵な存在感が立ちあがってくるのだ。
みずたまりのように蒸発してしまう行き止まりにわが今立てる
観念的な歌だ。句切れがどうなのか、それによって解釈が分かれる。三句でいったん切れているとすると、行き止まりにぶち当たった「われ」が蒸発してしまうわけだ。三句切れでないとすると、行き止まりが蒸発することになる。
この歌も結句が強い。「わが今たてる」の言葉運びには自恃が感じられる。この強さからいくと、どうも三句切れとは読みにくいような気がする。
目の前にある行き止まり(もちろん心象風景だろうが)が蒸発してしまうということは、
「われ」の太陽のようなポジティプさともとれるが、それにしても、初句の「みずたまりの」に感情移入というか愛着が感じられる。おそらく作中主体は、こころの半分では行き止まりを望んでいるのだろう。行き止まりはひとつの道しるべでもあるからだ。
四句以降の展開如何によっては、例の、評論でよく使われる「現代の若者の閉塞感」
の歌になる可能性もあった(というか、「閉塞感」と書くとなんとなく評論っぽく仕上がるのだ)。
この結句の強さが花山周子の強靭さだと思う。気負わない強靭さ。
上の句はすべて句跨りになっている。一気に読み下したい。四句目の字足らずでスピードが落ちる。歌意からいっても効果的な字足らずと思う。そして四句で一呼吸置き、「わが今たてる」と悠々と読み収めるべきだろう。
*棒立ちの歌…現在の若者歌の一傾向について、穂村弘が提唱した概念。以下、引用。
「九十年代の後半から時代や社会状況の変化に合わせるように世界観の素朴化や自己意識のフラット化が起こり、それに基づく修辞レベルでの武装解除、すなわち「うた」の棒立ち化が顕著になったのではないか」(『短歌の友人』第2章「口語短歌の現在」棒立ちの歌(穂村弘)より)
高田祥(たかだ・しょう)
神奈川県生まれ。2004年未来短歌会入会。加藤治郎に師事。2007年度未来賞受賞。横浜市在住。
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