長らく更新せずすみませんでした。
+a crossing の記念すべき第10回は、光森裕樹さんです。
どうぞお読みください。
乾びたるベンチに思ふものごころつくまで誰が吾なりしかと
最初の記憶
ものごころ躰に注がれゆく音を土鳩のこゑとして聞いてゐた
いつの日のいづれの群れにも常にゐし一羽の鳩よ あなた、でしたか
短歌評は、荻原裕幸さんです。10月27日(月)に掲載予定です。
光森裕樹(みつもり・ゆうき) 1979年兵庫県生まれ。所属誌なし。第54回角川短歌賞受賞。
長らく更新せずすみませんでした。
+a crossing の記念すべき第10回は、光森裕樹さんです。
どうぞお読みください。
乾びたるベンチに思ふものごころつくまで誰が吾なりしかと
最初の記憶
ものごころ躰に注がれゆく音を土鳩のこゑとして聞いてゐた
いつの日のいづれの群れにも常にゐし一羽の鳩よ あなた、でしたか
短歌評は、荻原裕幸さんです。10月27日(月)に掲載予定です。
光森裕樹(みつもり・ゆうき) 1979年兵庫県生まれ。所属誌なし。第54回角川短歌賞受賞。
+ a crossing 第9回大辻隆弘さんの作品評は、光森裕樹さんです。
大辻作品に漂う不思議な雰囲気がどこから生じているか、知的に解いてくださいました。どうぞお読みください。
《大辻隆弘さん3首評 光森裕樹》
鳥のこゑ西にながれて夕ぞらはしだいに青のさめゆく平(たいら)
西へ飛びゆく鳥の声の空間的遷移を聴覚でとらえ、暗くなってゆく夕ぞらの時間的遷移を視覚でとらえている。鳥の行く先に顔を向け、そのまま夕ぞらを見つめ続ける主体の行動を、読み手は追体験できる。
最後の一語の「平(たいら)」に謎がある。「夕ぞら」が「平(たいら)」とはどういう場面を浮かべればよいだろうか。
「夕ぞら」と言いつつ、暗くなってゆく「青」に着目していることから、夕陽もほとんど沈んだ状態だと想像できる。暗みを増してゆく青を見つめる主体は、空を一枚の広大な平面のように感じているのだろう。
消えてゆく鳥の声と、空の色とがどことなく淋しい一首である。
しみじみと受け持つ生徒に説教を垂れをり夢に涙してわれは
歌意はシンプルで「夢の中で、私は涙しながら、受け持つ生徒に、しみじみと説教を垂れている」ということになる。なんだそれでは歌の中の言葉をシャッフルしただけではないか、という声が聞こえてきそうであるが、この歌の妙味はそこにある。
初句の「しみじみと」まで読むと、脳はおのずと「しみじみと」がかかる動詞を求める。まずは二句目の「受け持つ」を、脳はその候補にあげるだろう。ところが「しみじみと受け持つ」では、なんだか言葉の組み合わせが不自然であり、どうも違うような感じがする。
そこで脳は、「しみじみと」と「受け持つ」とに再度分離し、それぞれを手札として置いておくことになる。歌を読み進めることで「しみじみと」が「説教を垂れをり」に掛かるのだとわかるまでに、あれやこれやの試行が発生する。
四句から結句にまたがる「夢に」「涙して」も、やはり語順としては不自然であり、同様である。短歌は定型詩であるのだから、このようなことは意図せずとも起こるのではあるが、作者はそのことを積極的に利用してこの一首を立ち上げている。
「しみじみと受け持つ」「夢に涙」するという、この一首で"起こっていない"ことの存在が、一首を"夢落ちの歌"となってしまうことから救い、夢特有のもやもやとした雰囲気を保存する装置となっているように感じる。
自身の説教を、どこか離れた視点で冷静に見ている主体がいる。どうやらその主体は、今、夢の中に居ることにも気付いている。涙してまで説教をする主体と、そこから二重の意味で醒めている主体。その対比を面白く読んだ。
わななきてなだりの草にさす陽ざし或いは朝をひびかふ木霊
斜面の草にあたる光の揺らぎを主体は見ている。「揺らぎ」と書いたが、「わななき」とあるので、もう少し心がざわめくような光の動き具合なのだろう。その心のざわめきが、木霊の存在の感知へと繋がる。
歌には、「こだま」や「谺」ではなく「木霊」という漢字が撰ばれており、そこにはやはり音としての「こだま」だけではなく「精霊」としての「こだま」が意識されている。
淋しげな暮れ方を詠んだ一首目、泣く主体とそれを見つめる主体とが分離した夜の二首目、そして、超自然的な趣きのある朝を詠んだ三首目。日常生活を時間軸に沿って綴りつつも、世の中から遊離しているような感覚が印象に残る三首であった。
第9回の a crossingは、大辻隆弘さんの短歌作品です。
どうぞご覧ください。
短歌三首 * 大辻隆弘
鳥のこゑ西にながれて夕ぞらはしだいに青のさめゆく平(たいら)
しみじみと受け持つ生徒に説教を垂れをり夢に涙してわれは
わななきてなだりの草にさす陽ざし或いは朝をひびかふ木霊
*
大辻さんは、この8月25日に三冊目の散文集
『時の基底 短歌時評98-07』を六花書林から出版されました。
http://rikkasyorin.com/
平成10年代の時評を中心とした評論集です。
わたしが短歌にはじめて触れた時期とほぼ重なり
とても興味のあるところなので、読んでみたいと思っています。
大辻さんの短歌評は、歌人の光森裕樹さんを予定しています。
*
大辻隆弘(おおつじ・たかひ ろ) 1960年三重県松坂市生まれ 現代歌人協会会員 日本文芸家協会会員 著書に、歌集『水廊』 『デプス』(第8回寺山修司短歌賞) 『抱擁 韻』(第24回現代歌人集会賞) 『夏空彦』 評伝『岡井隆と初期未来ー若き歌人たちの肖像』など。
+a crossing 内山晶太さん作品の歌評は、大辻隆弘さんです。 短歌評 * 大辻隆弘 わらじむし湯船の底にゆらめけりさながら冬のはじまりにして 内山晶太
「わらじむし」は水辺に生息する小さな甲殻類。ダンゴムシと似ているが、背をまるめることはない。 この歌の上句の情景は、 湯を張った風呂の湯船の底にワラジムシが生息している姿を、 作者が湯に入りながら見ているところなのだろう。 虫が嫌いな人間なら、悲鳴をあげる場面なのだろうが、
作者はそれをせずに、 ともに生きるものとしてなにか共感めいたものさえ感じながら、 そのダンゴムシを眺めているようだ。 そのゆったりとした気持ちは「湯船」「ゆらめけり」の「ゆ」 の音の頭韻によって醸し出されている。 下句「さながら冬のはじまりにして」
という部分がやや多義的だ。「さながら」とあるのだから、 この歌が歌われた季節は冬以外なのだろう。夏の最中にいながら、 冬ごもりを始めるときのような安寧。そういったものを、 作者は湯につかりながら感じとっているのかもしれない。 You Tubeというものあればあるときは若かりし轟二郎みており
轟二郎というタレントの名前を久方ぶりに見た。
今はほとんどテレビで見ない。全盛期でも「一世を風靡した」 といったタレントではなく、あまり売れない二流のコメディアン・ 役者だったように思う。 動画を自由に見ることができるインターネット上の「You Tube」で、作者は、
何の気なしに轟二郎の若かった日の映像を見たのだろう。彼は、 その映像を見るともなく見てしまった、 ああこんなタレントがいて、自分は昔ひととき、 このタレントが出ていたテレビ番組を見ていたな、とふり返る。 そういう茫然とした脱力感をうまくとらえていると思う。 このような脱力感は、実は、この一首の文体が醸し出すものだ。
「というものあればあるときは」 といった意味的にはほとんど内容のないゆったりとした言葉づかい がうまい。「あ」の音の調べもよく聞いている。 さりげなく置かれた「ており」の措辞もうまいだろう。 まわりの意味性が薄められているために「You Tube」という外来の新しい言葉と「轟二郎」
というゴツゴツした固有名詞が、読者に強く印象づけられる。 そのバランス感はなかなかのものだと思う。 竜田揚げ食みつつうすき嘔吐感 、くりかえし花吹雪のなかにいるよう
竜田揚げというのは、まあ和風からあげである。
その色が赤いところから、紅葉の名所「竜田山」 にちなんで名づけられた名だ。したがって「竜田揚げ」 という名詞の背後には、 日本の花鳥風月の美意識にうらづけられた紅葉のイメージが張り付 いている。 おそらく作者はそれを意識しているのだろう。
竜田揚げの油によって、軽い嘔吐感が襲う。 作者の内臓は少し疲れているのかもしれない。が、 その嘔吐感を作者は、絢爛豪華な「花吹雪」のなかにいるようだ、 と喩える。そこには、 不快な嘔吐をあえて豪華な言葉によって表現しようとする、 作者の遊びごころがあるのだろう。
「竜田揚げ」の背後にある紅葉に彩られた錦秋、「花吹雪」
の背後にある絢爛豪華な春。 日本の春秋の代表的な美である紅葉と花のイメージを「見せけち」 のようにチラリと感じさせる美学、 ちょうどそれは荒涼たる浜辺の光景を「 見渡せば花も紅葉もなかりけり」 と歌った藤原定家の美学を想起させる。 作者はそれをきわめて卑近な事象のなかに導入し、 詩的要素のない日常の荒涼を表現しようとしたのかもしれない。
*
竜田揚げに竜田山の紅葉という日本の伝統的な美意識を見出し、謎めく三首目を読み解いていくくだりはドキドキしました。某ファストフードの商品「チキンタツタ」を見る目が変わったかもしれません。
*
大辻隆弘(おおつじ・たかひろ) 1960年三重県松坂市生まれ 現代歌人協会会員 日本文芸家協会会員 著書に、歌集『水廊』 『デプス』(第8回寺山修司短歌賞) 『抱擁韻』(第24回現代歌人集会賞) 『夏空彦』 評伝『岡井隆と初期未来ー若き歌人たちの肖像』など。
内山晶太(うちやま・しょうた) 1977年千葉県八千代市生まれ 1998年、連作「風の余韻」により第13回短歌現代新人賞受賞 短歌人同人
夏も本格的になってまいりましたが、いかがおすごしでしょうか。
第8回の a crossing は内山晶太さんの短歌作品です。
床下や窓の桟などにこっそり住み着いている、和の昆虫の一生が目に浮かびます。
短歌三首 * 内山晶太
わらじむし湯船の底にゆらめけりさながら冬のはじまりにして
You Tubeというものあればあるときは若かりし轟二郎みており
竜田揚げ食みつつうすき嘔吐感 、くりかえし花吹雪のなかにいるよう
*
内山晶太(うちやましょうた) 1977年、千葉県八千代市に生まれる。1998年、
+a crossing 高田祥さん作品の歌評は、短歌人の内山晶太さんです。的確かつ手堅い批評と評判の内山さんが一見奔放な高田さん作品をどう読むか、とても興味のあるところです。
*
短歌評 内山晶太
取り乱してる、何か喚いてる、ほら(五月雨や)
基本的には、分からない。一首の解釈どうこうという作品でなく、
分かりにくさの極北を目指しているような、いないような。
困る。
とはいえ、
で、解釈。
一首に登場してくる物体が異常に少ない。五月雨、僕、
私はカッコを考慮して、間投助詞、俳句の切れ字のほうをとった。
ただ、
久方の、オカケニナッタデンワバンゴウハ雨デス。あられもない
こちらも分裂主義といっていいような作品。その分裂を「久方の」
オカケニナッタデンワバンゴウハ雨デス、とはじつにそっけない。
電話をかけるとは、
もしそうであれば、一首にオチ、
ここからはちょっと強引にいかせてもらう。荒療治。
はしたないという意味で用いる「あられもない」
一歩踏み込む。つまり、「あられもない」は「(女性の)寝姿」
解釈にはてこずるが、
音の無い詩もあるだろう 蜘蛛糸のほっつりほつれ日照雨ふりける
蜘蛛の糸がほつれて風になびいている。
因果関係の希薄化。
比較。
蜘蛛糸のほっつりほつれ日照雨ふりける
蜘蛛糸のほっつりほつる日照雨のふりて
前者は蜘蛛糸のほつれと日照雨の間には弱い因果関係しかない。
一方、後者。因果関係は明白であって、一読分かる。が、
内山晶太(うちやましょうた) 1977年、千葉県八千代市に生まれる。1998年、
a crossing 第7回は、未来短歌会の高田祥さんです。
先日刊行された同人誌「新彗星」では、"首またがり"という新しい表現方法で、魅力的な作品を見せてくれました。
短歌三首 * 高田祥
取り乱してる、何か喚いてる、ほら(五月雨や)僕にルビをふってる
久方の、オカケニナッタデンワバンゴウハ雨デス。あられもない
音の無い詩もあるだろう 蜘蛛糸のほっつりほつれ日照雨ふりける
高田祥(たかだ・しょう)
神奈川県生まれ。2004年未来短歌会入会。加藤治郎に師事。2007年度未来賞受賞。横浜市在住。
a crossing 第6回花山周子さんの作品評は、高田祥さんが執筆してくださいました。どうぞご覧下さい。
*
ねむりながら顔がくぼんでゆく人が引力となりわれは見下ろす
ごつごつした文体である。「が」が上の句で三か所もでてくる。
短歌的に手慣れている人ならば、「が」を減らして韻律を整えようとするだろう。
「ねむりながら顔のくぼんでゆく人の引力 われ〜」とか。いくつかやりようはあるだろう。「が」より、「の」のほうが昔から短歌と仲がいいのだ。
でも、そもそも、「韻律が良い」って何だろね?とも思ってもみる。
まず、「顔が」のほうが「顔の」より現場感がある(実際、目の前にしていたら、「あ、顔の」とは言わないだろう。「あ、顔が」と言うはずだ)。じゃあ、「人が」はどうだろう。
これもやっぱり現場性としか言いようがない。「人の引力」だと、上手くまとめた感じがする。(でも、そういう作家性の人ならそれでも構わないのだが)。
こうやってつらつら考えてると、やっぱり「が」の連発でいいように思い直してしまうから不思議だ。
花山周子はけっこう文語を使うんだけど、作歌にあたっては現場性重視、意識の流れの記述を優先し、いわゆる「文語的にうまくまとめる」タイプでないことがわかる。現場感がでているか。それが花山周子的「韻律の良さ」である。韻律が良い、とは一通りのものではないのだ。
ようやく歌の解釈に入る。、「顔がくぼんで」は悪い夢でも見ているのかもしれない。
嬉しそうな表情とは考えにくい。なんだかつらそうだ。「人」は恋人でも家族でも友人でもよいのだが、つまり、そのつらそうな顔を作中主体は心配している。いや、心配しているというより、この「引力」という語感から察するに、「どうしてこうなるんだろう」の不思議発見的好奇心のほうが優先されているように思える。引力に引っ張られているわりには、結句「見下ろす」があまりに余裕があるのだ。しかも、「われは見下ろす」って書けるってことは、その「われ」をさらに客観視している冷静さがあるわけだ、作者は。「顔がくぼんでゆく人」もそれに引っぱられる「われ」も、どちらも不思議でたまらないのだ。
この作者はまだ身の回りの「不思議」につきあう心性を失ってないらしい。
クリスマスケーキに載っていたものは仁丹なのか疑問に思う
「棒立ちの歌」*っぽい。やばいなあ、と思う。棒立ちの歌は散文的で無防備(一見)だから、それを批判すると、なんだか自分が悪者になった気がするのだ。悪者になりたくないから、なんとか「味」を発見しようと歌評者としてはやっきになる。
結句、「疑問に思う」とあるから、前評と同じように、不思議に立ち向かう系の歌にみえるが、そうではないように思う。「疑問に思う」が強すぎる。たしかに、クリスマスケーキにこまごまと載せられている色とりどりのアレは仁丹っぽいのだが…でもやはり仁丹は載せないだろうという常識(?)は働くのではないか。(ネットで調べてみると、その、アレは「アラザン」といい、コーンスターチを混ぜ合わせた粒子状の砂糖に食用銀粉を衣がけして作らるものらしい。)もし、「見たて」としてこのアイテムをもってきているなら、あまり成功していない歌だと思う。「疑問に思う」と書いてる時点で見破っていると思うのだ。
いやでも。クリスマスケーキは見た目もデコレーションだけど、食べ物としてもデコレーションだ。それに比べ、仁丹は、なんていうか、小うるさそうだけど生命に効く、関わりがあるという感じがする。
それが小粒なだけになおさら。「疑問に思う」と書いておきながら、実は、「クリスマスケーキ」と「仁丹」を二物衝撃的にぶつけ、食の本質を曝している妙のある歌、のような気がしてきた。評を書いているうちに。読み返すほどに、仁丹の不敵な存在感が立ちあがってくるのだ。
みずたまりのように蒸発してしまう行き止まりにわが今立てる
観念的な歌だ。句切れがどうなのか、それによって解釈が分かれる。三句でいったん切れているとすると、行き止まりにぶち当たった「われ」が蒸発してしまうわけだ。三句切れでないとすると、行き止まりが蒸発することになる。
この歌も結句が強い。「わが今たてる」の言葉運びには自恃が感じられる。この強さからいくと、どうも三句切れとは読みにくいような気がする。
目の前にある行き止まり(もちろん心象風景だろうが)が蒸発してしまうということは、
「われ」の太陽のようなポジティプさともとれるが、それにしても、初句の「みずたまりの」に感情移入というか愛着が感じられる。おそらく作中主体は、こころの半分では行き止まりを望んでいるのだろう。行き止まりはひとつの道しるべでもあるからだ。
四句以降の展開如何によっては、例の、評論でよく使われる「現代の若者の閉塞感」
の歌になる可能性もあった(というか、「閉塞感」と書くとなんとなく評論っぽく仕上がるのだ)。
この結句の強さが花山周子の強靭さだと思う。気負わない強靭さ。
上の句はすべて句跨りになっている。一気に読み下したい。四句目の字足らずでスピードが落ちる。歌意からいっても効果的な字足らずと思う。そして四句で一呼吸置き、「わが今たてる」と悠々と読み収めるべきだろう。
*棒立ちの歌…現在の若者歌の一傾向について、穂村弘が提唱した概念。以下、引用。
「九十年代の後半から時代や社会状況の変化に合わせるように世界観の素朴化や自己意識のフラット化が起こり、それに基づく修辞レベルでの武装解除、すなわち「うた」の棒立ち化が顕著になったのではないか」(『短歌の友人』第2章「口語短歌の現在」棒立ちの歌(穂村弘)より)
高田祥(たかだ・しょう)
神奈川県生まれ。2004年未来短歌会入会。加藤治郎に師事。2007年度未来賞受賞。横浜市在住。
a crossing 第6回の歌人は、花山周子さんです。
一読すればこの世のことではないかのようなことがらを、この世にしっかり結びつけている面白い作品です。
短歌3首*花山周子
ねむりながら顔がくぼんでゆく人が引力となりわれは見下ろす
クリスマスケーキに載っていたものは仁丹なのか疑問に思う
みずたまりのように蒸発してしまう行き止まりにわが今立てる
*
花山周子(はなやま・しゅうこ)
1980年5月18日生まれ。1999年「塔」に入会。2007年8月第一歌集『屋上の人屋上の鳥』(ながらみ書房)を上梓。2008年ながらみ出版賞を受賞。
歌評は、未来短歌会の高田祥さんの予定です。
先日、「屋上の人屋上の鳥」の批評会を開催されたばかりの花山周子さんから
喜多昭夫さん作品の短歌評をいただきました。
丁寧な読解のなかにも骨太な感覚が見られ、新鮮に感じました。
どうぞお読みください。
*
短歌評:花山周子
ゐざらひを洗ひてやればほうほうと声あげて子は桃のごとしも 喜多昭夫
最初の二首にはハ行音などのやわらかい語感によって、春のあたたかな厚みが描き出されているように思った。この一首目も、場面は「ゐざらひ」つまりお尻を洗ってやるときに子供が声をあげているというだけのことであるが、それだけではない、なんとも不思議な感覚に陥れられる。「ほうほう」という一見、爺臭くもあるような太い擬音語。これは、子供の声を忠実に表現しようというよりは、「桃のごとしも」という比喩の持つやわらかな感触に沿うように選ばれているのではないか。また、お尻が桃のようだという比喩であれば、常套的とも言えるが、この歌では、先に「ゐざらひ」が出てくるものの、直接的にお尻と桃が結びついてはいない。「ほうほうと」声をあげる子供全体が「桃のごとしも」となるので、この「桃のごとしも」という比喩が歌全体を包み込むような印象があるのである。そのために、読んでいると、湯船から立ち昇る湯気の中で桃色の皮膚をした子供の姿が浮かぶと同時に、その周辺の空気までもが桃色をしているような、春の生暖かな温感が伝わってくる。
ほつかりと息づくごとし側溝に吹き溜まりゐる花びらの量(かさ) 喜多昭夫
この歌でも、「ほつかりと」という擬態語に、実際の風景を描写しただけでは捉えきれない、春の息吹のようなものを感じさせられる。「ほつかりと息づくごとし」とは、とても変わった表現である。「ほっかり」という言葉は辞書を引くと、「①うっかり。だしぬけに②すっかり。まったく③大きく口を開くさま。ぱっくり④暖かみのあるさま⑤ほんのり明るいさま」となっていて、この歌では④や⑤の意に近い使われ方をされているように思うが、しかし、基本的にはこれらの意味にしぼられない感覚的なオノマトペとして使用されているように思う。
私には花びら(桜の花びらと思って読んだのですが。)がたくさん積もっている状態というのは、花びら一枚一枚の水分で、なんとなくしっとりと湿っていて重みのある冷えたかたまりのような印象がある。しかも、側溝に溜まっているというのだから、なおさらにしっとりとした状態を思い浮かべるのだが、「ほつかりと」が捉えているものは、側溝に当たる春の陽射しがもつ暖かみとか、「息づく」という空気に関わる言葉からも伝わるように、側溝に溜まった花びらの周辺の雰囲気をも含んでいるように思う。溜まった花びらの描写に終始しながら、その花びらのやわらかな質感を包みこむような周囲の空気までもが「ほつかりと」という言葉には反映されていると思うのである。
石段をすこし離れて登りゆくとまどふやうに葉桜さやぐ 喜多昭夫
さりげない歌だが、淡く相聞の気配が漂う。最初読んだときには「石段を少し離れて登りゆく」の主語がわからなくてとまどった。私が、石段を少し離れたところを登っているのかとも思ったが、違うだろう。私と、もうひとりの人が石段を少し距離をとりながら登ってゆく。
このように「石段を少し離れて登りゆく」の主語がぼかされていることで、つまり言葉上は人物の存在を省かれることで、二人の関係のほのかな緊張感がより淡い体感として伝わってくるように思う。そして下の句の「葉桜」の映像がより鮮明に浮かぶ。
歌の中の「われ」は石段を登りながら、いっしょに登るある人との距離を意識しつつ、その視線はゆれる葉桜を仰いでいる。そしてその葉桜に己の「とまどふやう」という心情を見出しているのである。「とまどふやう」がやや露骨な気がするが、どうであろうか。
「葉桜さやぐ」に初々しい情緒がある。主語(人物)のないことと、「石段」や「葉桜」という言葉から描き出される、しずかな初夏の情景の中で、その葉桜が「さやぐ」だけで、「とまどふやうに」と言わなくてもいいものがじゅうぶん感じられる気がするのである。
それから、上の句と下の句がそれぞれ別のセンテンスとして成立している(「~登りゆく」「~さやぐ」というふうに)ために、散文的な印象を受ける。そのために上の句から下の句へ移るときに「われ」の視線の動き、あるいは心の動きなど、切り替わる様子が叙事的に且つシンプルにとらえられていると思うので、「とまどふやう」だけが、やや位相を異にしているような印象を受けるのである。
花山周子(はなやま・しゅうこ)
1980年5月18日生まれ。1999年「塔」に入会。2007年8月第一歌集『屋上の人屋上の鳥』(ながらみ書房)を上梓。
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